今から50年ほど前まで、カトリック教会は、世界中どこでもラテン語という同じ言葉で、全く同じやり方で礼拝をささげていた。ところが、1962年に開かれた「第二バチカン公会議」という公会議で、それぞれの国や民族の言葉が礼拝で使えるようになり、それぞれの風習や習慣が祈りの中に取り入れられるようになった。
ケニアの教会では、礼拝の中に女の子たちが捧げるダンスが取り入れられており、賛美歌を歌いながら人々は手を大きく左右に振る。また、アフリカのある国では、祭壇を清めるために、白い粉を振りまく。また、ある国では、感謝のしるしとしてお辞儀をしながら手を何回か叩く。
イエスは次のような言葉で神さまに祈ったと聖書は伝えている。
「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」(ヨハネ17・21)
あらゆる違いを乗り越えて、すべての人が一つになることは、イエス御自身の願いである。しかしながら、本当の一致とは、表現の言語や方式、やり方が全く同じということではなく、それを行う人々の心が一つであること、同じ方向を見つめ続けることではないかと私は思う。言葉とやり方は少々違っていても、同じ一つの心で全世界の教会は神に祈り続けている。