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それでも感謝

黒岩 英臣

今日の心の糧イメージ

 私達は皆、お礼を言ったり、感謝の思いを何とか伝えようとして、手紙を書いたり、直接相手に会って、自分の気持ちを表そうと努めます。

 こうした場合、相手が私にしてくれた、またはしようとしてくれた事が、私に、それを受けても当然と言える範囲をはるかに超えて、相手がひたすら私への好意から行なわれる事に、私達は深く感謝します。場合によっては、相手のいくらかの犠牲さえ伴うかもしれない訳ですから・・。

 さて、こうした感謝は私達夫婦の日常生活の上でも、頻繁に行われています。私は妻から何くれとなく好意や愛情の発露を受け取っているので、妻に対しては絶えず感謝しており、それを表そうと、しょっちゅう「有難う」とか、ちょっぴりふざけて「ありがとさん」などと言っています。一方、妻から私への感謝は、気のせいか、私より少ないようですが・・シーッ!声が大きいっ! 叱られるかも。

 ところで、今この放送を聴いて下さっている皆様は、カトリック教会で毎日捧げられているミサという典礼が、主イエスの十字架に磔という、極度に恐ろしい刑を前にしての食事の記念であるという事をご存知でしょうか。福音書によりますと、主イエスは弟子たちと過ぎ越し祭の食事をされた折り、パンとぶどう酒をとり、父なる神に感謝を捧げてから、「これはあなた達のために与えられる私の体、そして血である」と仰り、これを記念して行うようにと定められたのです。(ルカ22・17〜20)

 それから、聖書は記しています。「イエスは苦しみもだえ、汗が血の滴るように地面に落ちた」と。(ルカ22・44)

 こういう苦しみの中にあって、それでも主は私達を天の御国に招くために、感謝してミサを定められたのでした。