聖書には、一見納得のいかないような話を、イエズス様が集まった群集に対して、話していらっしゃるという場面がいくつも出てきます。例えば、最後に来た人が天国では最初の席に着くという話や持っている人には更に与えられ、持たない人は持っていると思っていた物迄、取り上げられる、というような言葉です。イエスズ様が群集に話している所に、母と兄弟が訪ねてきて待っていたが、取り次いだ人に対し「私の母と兄弟とは誰のことか」と云われた場面は、「誰でも私の天の父の意思を行う人が、私の兄弟、姉妹、母なのだ。」(マタイ12・48〜50)と続くので、イエズス様の想いを理解することが出来るのですが、この時の待たされたままの聖母マリアの胸の内はまさに「それでも感謝」であったのではと思います。
私たちの日常は喜びも悲しみもあり、忙しさゆえに折角のチャンスを、取り逃がすこともあります。健康に気を付けていても病気や怪我もあり、幸運な出会いの反面、淋しい別離もあります。それでも、今日があり、生かされている事に感謝して人生を全うすることで、天国に到達出来るのですから、「セラヴィ!それでも感謝」です。