今日、日曜のミサ中、信仰宣言のところで、「からだの復活、永遠のいのちを信じます」と唱えます。これはやはり、復活が言葉では説明できないものであり、「信仰」の範ちゅうに属していることを示しているのでしょう。
復活したキリストについて私が心打たれる聖書の部分は、キリストは、傷跡をそのまま残して復活したという点です。(参ヨハネ20・27)しかも、不審がる弟子たちに、自分というアイデンティティ、自己証明として、「この傷跡を見なさい。私だ」と言っておられることなのです。
十字架上の死は、当時のユダヤ人にとっては恥辱であり、弟子たちにとっては敗北のしるしでさえありました。それなのに、あえて傷跡を消すことなく復活されたということは、"復活とは"という問いに対する答えの、一部分を秘めているように思うのです。
私たちもまた復活します。その時、自分の生涯を、その復活体に刻みつけているのではないかということなのです。キリストの小さい兄弟姉妹の一人にしたこと、しなかったこと、一生の間に担った十字架の一つひとつが、そのまま、自分のアイデンティティとして残っているということなのです。そしてキリストはきっと、その傷跡を慈しみ深く見つめ、いたわってくださることでしょう。