私の日常における仕事と言えば、神父としては教会での典礼と説教であり、神学院の教授として講義をすることでした。私自身の意識では、それは「仕事」ではなく、修道会員の司祭として当然なすべき日々の生活様式のような気がしていました。それに、女子大学の講師として、社会一般の事務的形式として月給をもらっていましたが、私は修道会会員として個人的所有権はありませんので、大学の事務局から私の所属する修道会の会計に振り込まれていましたが、私個人としては直接手にしたことはありませんでした。
しかし、更に他の辞書を見てみますと、「仕事」は「社会に貢献」し、「その社会に貢献することこそ、自分の生き甲斐であると見なしている人が多い」と書かれていました。
しかも一般社会においては、「自分の固有の人生の目的や生き甲斐に矛盾すること」があったり、失業の怖れから、精神的に不安定になって苦しむ人もあり、実際に職を失い、家族が生活できないという現実があるとも言われています。
その現実を考えると、私たち修道会の神父は、自分自身の生活の心配もせずに自分の勤めを果たしていれば、衣食住は保障されているのですから、とても贅沢な生き方なのでは、と反省してしまいました。