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私とロザリオ

岡野 絵里子

今日の心の糧イメージ

 昔のこと、海外旅行のお土産に、祖父がロザリオを買って来てくれたことがあった。観光客用のきらびやかなものだったので、祖父はそれを首飾りだと思い、幼い私の首にかけてくれた。キリスト教を知らない祖父には無理のないことだったが、さて本当のことを伝えるべきかどうか、父母が物陰で相談していたことを思い出す。年長者を敬う家庭だったので、思い違いを指摘するのは失礼にあたると、父母は思ったのである。結局、信者としての良心のようなものが勝ったらしく、母が、ロザリオは祈りのためのものであると説明することになった。恐る恐るだったが、「ふむ。そうか。」と言っただけで、祖父は気を悪くする様子もなかったので、家族はほっとした。

 その祖父も、晩年は洗礼を受けた。もう病床にあったが、「ヨゼフ様は、キリストのお父様だからね、一番偉い聖人なんだ。」と、自分の洗礼名を誇りにして、子どものように嬉しそうだった。今度は、孫からロザリオを贈ればよかったのに、ぼんやり者の私は気がつかなかった。見えないロザリオで、祖父はどんな祈りを捧げていただろうか。

 ロザリオの祈りは、その言葉通り、聖母マリアに捧げる薔薇の冠だ。祈る時、心は沢山のものに出会う。つらかった過去の出来事や、将来の不安。勝手な願い事をしている自分の欲深さにも気づく。醜い自分、弱い自分。だがしばらくすると、泥が沈んだ後のように、不思議と澄んだ気持で、どこかへ向かうことができるようだ。そこは聖母が私たちの弱さを受け取って下さる場所なのかもしれない。

 祖父母も両親もすでに亡くなった。だが、死者のために祈る時、その面影に出会うことができる。祈りとは、小さな私たちが成し得る大きな不思議でもある。その力と恵みを信じていたいと思う。