でも、これほど恵まれながら、十分に応えられなかった自分を悔いるとき、詩編の祈りが唇にのぼります。
「いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。あなたは救いの喜びをもって、私を囲んでくださる方」(32・1と7)
私は何よりも、一年の間に起こったすべて、わけても私自身の弱さをとおして働かれた神様を賛美し、慈しみに感謝すべきでした。
私の振り返りが自己中心的な堂々巡りから解放されて、神様に視点を置くのを助けたのは、使徒パウロの勧めです。
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4・4〜7)
ここでパウロがいう「神の平和」を、ある聖書学者は「神ご自身がもつ平和、神の永遠性に由来する静寂さ」であると言っています。
「私たちはこの静けさの中に入れられて、喜ぶことができる」と。