

「今朝、刑期を終えて出所しました。」
活動センターの戸口に立つ男性はそう言いました。ドアのノブを持ったままの私に、彼は自分の身の上話を始め、私は男性を部屋へ招き入れていました。
「私には家族もなく、行く当てもない。前科十犯、大阪の支援団体は知り尽くしている。今は過去の全てを断ち切って新たに生き直したい。」
そんな話でしたが、うちは単なる慈善団体に過ぎません。「できることはありません」と断るのは自由でした。でも、本当に何もできないのかな。実は「できない」のではなく「関わりたくない」自分がいるのを、私にはわかっていました。
ところが男性の話を聞くうちに、私はいつの間にか身を乗り出して聴き入るようになっていったのです。彼は幼少期から凄まじい虐待を受け、居所を転々とする生活を強いられて育ちました。重い過去を語るその人に、私は何かをさせてほしい気持ちになってゆきました。
あの日から10年。私たちは今も良い友であり続けています。男性は鋭い洞察力で人間社会について語り、私は自分の視野の狭さや偏見に度々気づかされるのです。
ただ、私には不思議でした。彼ほど過酷を極めた生い立ちであっても、芯のところに優しさと素直さがあるのはなぜなのか。やがて私にはその答えがわかってきました。
幼い頃、近所のあるおばさんが彼に温かい声をかけてくれた、ある教師が彼を可愛がってくれた、そんな小さな体験が彼の記憶の真ん中にあったのです。寂しい少年に優しかった大人たちは、彼に「健やかさ」の種を植え、それが彼に人間らしさを見失わないよう、時をかけて育んだようでした。
私たちの「健やかさの源にあるもの」とは、幼い頃に「大事にされた経験」そのものなのかもしれません。