

たゆたう水が水田を満たし、稲の
「みことばの分かち合い」もそれに似ていると思うのです。ひとり一人違った分かち合いを聞くことが出来ますし、新しい発見もたくさんあります。渇いた心に水を注いでもらった感覚で、生きるに必要な水です。みことばにはそんな力があるのですね。そして、それはいいタイミングで降りて来るので、不思議でもあります。
しかし、なかなか分かち合うことが難しいと感じることもあります。自慢話になってしまわないか? カッコつけの私ではないか?などなど心配し、不安になり、分かち合えなくなるときもあります。
弱い自分の姿を目の当たりにして尻込みしてしまう。
そんなとき「弱い時にこそ強い。」(二コリント 12・10)という聖パウロの言葉を思い出します。
恥ずかしさが増すとき、神様は人間の弱さの中でも働かれる。弱さの中にこそ浸み込んでくるものもある。そう思い直すようにしています。
やっぱり自分の恥をさらす勇気と、それを犠牲にする愛がいりますね。
「豊かさ」とは、分かち合うことでいただけるもの、助け合うことで見出されるもの、弱さや恥と思うものの中にも隠されている気がします。
お米の問題が続いている現在だからでしょうか? 美味しいお米を頂けていた頃を思い出すと、作業はきつくて嫌々だったけど、贅沢だったと思います。
豊かさの元には、それなりの犠牲のようなものを差し出す必要があり、それが分かち合いなのかもしれないと思ったりします。