

カトリックの洗礼を受けた高校生の時代から月日が夢のように流れ去ります。初めて天地創造の神様が存在するというお話を聞いてから大学を卒業するまでの間、神様のことは素直に受け入れられませんでした。或る時は神の存在を否定していました。
第2次世界大戦が終了したとき、私は神奈川県の葉山町の小学校に通う小学3年生でした。アメリカの戦闘機が私たち子供にすら機関銃を打ち込むので、アメリカが嫌いでした。
終戦後、新潟県と福島県の県境の村に疎開します。
その村に何とも不思議な雰囲気をもつ古いお墓があり、「伝説によれば静御前のお墓だよ」とお寺のお坊様に教えていただいたときは、驚きました。子供ながらにお墓の前では哀しい気持ちになり、手を合わせたのが最初の真剣なお祈りの体験でした。
私は美しい思い出は受け入れていますが、暗く切ない思い出は即座に否定し、取り消します。
そして、「神様は愛そのものだ」という言葉を思い出せば、不思議なことに私の心の一角に暖かい小さな泉が湧き出してくるのを、最近しみじみと感じます。この小さな泉は、考えてみれば、洗礼以来絶えず湧き出しているようです。
難しい哲学の本も沢山読みましたが、最近「自分の心の中での変な自問自答」こそが本物の祈りなのかなあ、と思うようになりました。
今は亡き、あの大好きなドイツの神父様が教えてくださった「心の中で聖霊さまに自由に語り掛けなさい、自分の心の中に浮かんでくる汚い言葉であっても、本当の叫びを聖霊様にぶつけなさいね」という言葉が神父様の優しい笑顔とともに私の心に浮かんできます。
それも「聖霊様」の働きのようです。この聖霊様との会話を素直に受けとめ始めた自分に驚いています。