私の奉職する大学には、看護学科があります。
看護学科の学生は、2年生の10月にコミットメント・セレモニーに与ります。この式において、彼らは、自分はこれから個人的な利害を超えて人々に仕える、ということを公に約束します。それは、新たな生き方への決意の表明であり門出です。
その時、彼らは一人ひとり、司祭からそれぞれの手を祝福してもらいます。
どのような看護の現場が待っているのか、それは分かりません。期待とともに、さまざまな不安もあるでしょう。しかし彼らは、祝福された手をもって、自分がこれから出会う患者さんに仕えて行きます。彼らが患者さんに触れるとき、それは単なる身体的な接触ではありません。祝福された手を通して、彼らの心が届けられます。
「私たちの神、主がその恵みを注がれ、私たちの手のわざが実り豊かなものとなるように」と詩編は祈ります。(90・17)
祝福された手で触れること――それは、相互的・人間的な関わりであって、決して一方的・物理的な関わりではありません。相手の言葉にならない痛みや哀しみに触れ、その叫びを聴きます。それは心の通い合ったふれあいであり、ある意味で、一つの祈りの体現です。
新たな生活が、祝福をもって始まる。それはたいへん素晴らしいことです。それでも、さまざまな不安や恐れもあるかもしれません。そのような時、生前のイエスが様々な場面で度々語った言葉を思い起こしたい。
「恐れるな。」
自分のささやかな営みは、自分が受けた祝福を伝えるものであることそのことを静かに思い巡らしたい、と思います。それによって、新たな希望や喜びに出会うこともあるでしょう。私はそう思っています。