神さまはそっと背中をあと押してくれる。遠藤周作は著作「私にとって神とは」の中でそんな比喩をもって神について説明します。
神がどこか中空に浮いた絶対的な者として、劇的に私たちを窮地から救い出してくれる、何処か遠くで私たちを見守り、命じたりする。こうした定義よりも、日々の生活にあって、私たちのうちに働いていてくれるもの、と考えるほうが腑に落ちるようです。
それも大げさな仕方でこれ見よがしの救済ではなく、ふりかえったときにいつしか何ものかがどこかでサポートしてくれていた、という気づきです。
神の啓示はふりかえったときに、歴史をとおして、人に気づかせてくれるものです。その点で、神学的な定義からもぴったりします。
してみると、神の本領は「手助け」にあるのかもしれません。
歴史的事件や人生最大の決断の時に、華々しく現れて、啓示を垂れるといった神のイメージよりも、日々の生活でほとんど気づかれないけれども、確実に私たちをあと押ししてくれる身近な存在なのでしょう。
手助けという言葉は、おおっぴらに押しつけがましく人を助けてやるんだというのではなく、できる範囲でつつましくというニュアンスが含まれています。あくまでも本人の主体性を損うことなくアシストする。助け主が表に出てくることなく、あくまでも補助に徹する。それでいてかまいたい、何かしたくて仕方ない、こうした心の顕れを感じます。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。...... すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」。(1コリント13・4~7)
神は謙遜で、目立たない、それでも希望を絶やさない、それが、神が愛と称せられる由縁なのかもしれません。