このテーマから、私は聖書の中の「山上の垂訓」を思い出しました。(参 マタイ5・3~12)
一般的には、「心の貧しい人達は幸いである」という言葉で始まっていますが、私の友人だったフランシスコ会聖書研究所の、故「堀田雄康」神父は、「"自分の貧しさ"を知る人は幸いである」と訳しています。日本語では、「心は豊か」でなければならないと言うのが、彼の見解だったからです。
いずれにしても、「豊かな心」と言う言葉には、「自分と他の人達」との社会的関係が含まれているのです。辞書などにも、「人間という表現は、社会的な存在であり、他者との関係を人格中心にとらえた在り方を意味している」と書かれています。
このように、人間の存在の本来の意味を考えてみますと、聖書の「敵を愛しなさい」という言葉も、なんとなく理解出来そうな気がしてきました。
「敵を愛し、あなたがたを迫害する者のために祈りなさい。それは、あなたがたが天におられる父の子であることを示すためである。天の父は、悪人の上にも善人の上にも太陽を上らせまた、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせてくださるからである」。(参 マタイ5・44~45)
この聖書の言葉は、私たちの日常生活における「人間としての豊かな生き方」を示唆しています。そんな生き方の一例を、東日本大震災で被災した東北の人々の生き方に見る事が出来るように思います。
当時のマスコミの記事には、「あの被災直後の生活の中で不平も言わず、小さな善意にも心から感謝する人々」という、驚きの感想が記載されていました。私達日本人には、日々の日常生活においても、相手を思いやる豊かな心を持っている人が多いように感じるのは、日本人である私の贔屓目なのでしょうか。
*アーカイブスを再収録しました