娘が3歳になるまで我が家に車はありませんでした。
ある日近くのバス停までゆっくり歩いていると、鳥の一群がけたたましく鳴きながら、道向かいの電線に止まりはじめました。見上げると、娘が訊いてきます。「マミー、鳥たち、何しているの?」
「整列して、バスを待っているのよ」と、答えました。
娘は混乱して、しばらく何も言いませんでした。それから、かすかにほほ笑むと、こう言います。「いや、音楽会のための練習をしている、と思う。」
「いや、それはちがうでしょ。映画が始まるまで、お話してるんでしょ」と、言ってみます。
こんな調子で私たちは数分間、想像の羽をはばたかせてはこの戯れを繰り返していました。鳥たちにトイレの順番待ちをさせたり、幼稚園の礼拝の時間の準備をさせたりして、笑いつづけました。なんて楽しい時だったことか。
その日なぜ私が遊び心でそう答えたのか、わかりません。鳥たちは骨休めをしているのよとか、食べ物を探しているのかもとか、暖をとっているのかな、などと答えられたのに。そうだったとしても、私たちのおしゃべりの実りは同じようにあったかもしれません。不思議をめぐって一緒に考えるうちに、近しくなっていったのです。
今日私たちの周りは溢れんばかりの情報で満たされています。たしかに科学技術は私たちの生活を進歩させてきました。でも、人間は、老いも若きも、つながりに飢えているのです。時に答えだけを提示しても私たちを分かつだけですが、一緒に首をかしげて考えると、いつも私たちを結びつけてくれます。
あの日、娘と私はなんら結論に至りませんでした。それでも、私の手を握る娘の手を今でもひしひしと感じることができます。