「捧げる」ということばは、いろいろな意味合いを含んでいるのだと思います。辞書で調べてみると、「押し頂いた物などを両手で高く差し上げる」「謹んで、神仏、または尊敬する人などに差し上げる」「心をこめて、まごころ、愛情、生命を差し出す」という意味が書かれていました。確かに、捧げるという言葉を読み、私のなかで最初に浮かんできたものは、「何か自分の大切なものを大切な人にお渡しする」というようなことでした。
「捧げる」という言葉から、思い出される人がいます。ブラジル人の神父様のことです。昔、語学学校で一緒に勉強していたアーロンは、その当時まだ若い神父でした。司祭になる前、ブラジルのサッカーチームに所属していましたが、腰を悪くして退団し、その後司祭を志し、叙階されたという経歴の持ち主でした。
ある課外授業の日、アーロンの歩く姿はゆっくりで、とても腰が痛そうでした。「大丈夫?」と声をかけた私に、アーロンはにっこりして、「考えてみて。今日は金曜日。ちょうどいい」と答えたのです。金曜日は私たちの大切なイエス様が十字架上でご自身を捧げ亡くなられた日。私ははっとさせられました。頭では自分の体の痛みや心の痛みをイエスさまと共に捧げよう、と思ってはいても、それを心から捧げることに難しさを感じていたのです。アーロンの姿を見、言葉を聴いて、自分の中で何かが変えられた感じがしました。それは私にとって大きな恵みの時でした。
平凡な生活の中で感じるどんな痛みも、いつくしみのまなざしで見ていらっしゃる十字架のイエス様と共に捧げていただく時、それはただの痛みで終わらず復活の命、希望に変えられるのです。