新約聖書の後半にある書簡の大部分は、聖パウロという人が書いたものです。その一つ、「コリントの信徒への手紙Ⅰ」の12章にはこうあります。
「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで体の一部ではなくなるでしょうか。(中略)頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。(中略)それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」。
私たちはよく「ギブ、アンド、テーク」とか「共存共栄」と言って、人に何かを提供すると損をしないように見返りを求めます。ところが、聖書の考え方でいくと、その心配は無用です。
人類全体はキリストの体であり、私たちはその部分です。役割は違っても、各自が互いの益となって働いているからです。もし、困っている誰かの役に立てたなら、損をしたのではなく、自分の体の一部分を助けたことになるのです。
例えばこういうことです。友達のために調べた資料が、後で作品を書く時に役に立った、あるいは、知人に、初めてのお産が軽く済むように祈りを頼まれ、祈ると短時間で健康な赤ちゃんが生まれた、そのことで神への信頼を新たに学んだ、といったことです。また、私はフードバンクに寄付するため箱に食品を買いためていますが、買い物に行けないときに、ちょうどいい食材があって借りることがあります。
誰かのためにしたつもりでも、その人が先に私を助けてくれたと感じてニッコリするのです。それはとても楽しい経験です。