夏目漱石の小説「三四郎」、その中の美禰子さんは、青春時代の「ときめき」の対象です。すれ違う美しい女性にも「ときめき」を感じますが、不思議なのは、人間に何故、この「ときめきという感情」が必要なのか?
さて、もし、この感情が無ければ、私は神様と出会っていないような気がします。
今、戦争の悲劇を、毎日テレビで見るにつけ辛い日々が続いています。それでも近くの森を散歩しますと、美しいお花、可愛い小鳥、爽やかな風、温もりを感じる太陽の光に心が満たされ、ときめきを感じます。この感覚が無ければ、人生、実につまらないとさえ感じます。
美しい音楽、小説、旧約聖書の雅歌の美しさ、その中の数々の言葉は、私を幸福にしているようです。或る種の「感動」は「ときめき」の一つですが、神様の愛に感動した思い出が一つあります。
昔、メキシコを旅した時、暴動に巻き込まれ死にそうになりました。その折、道端でたおれていた私を、そーっと覗き込んだ子供がいました。その目は美しく澄んでいて、何とも温かく優しい眼差しでした。この時の少女の瞳の美しさは、生涯忘れられない思い出の一つです。この体験は、理性的なものでなく感覚的な思い出で、思い出すたびに、心がときめき、その記憶が私の「生きるエネルギー」になっています。
アルプスの壮大な風景、あちこちの旅で感じた森や海や湖の美しさ、夜空の星や、世界中で愛されている美しい音楽、これらの、五感に触れる様々な「ときめき」には深い意味があります。
あらためて人間に美しい五感を与えてくださった神様に感謝したいです。そして、「ときめき」は人類が希望をもって生き抜いていくための神からの最大のプレゼントのようです。