「麗しい」――その意味にはいろいろありますが、例えば、「整っていて美しい」が、思い浮かびます。では、「麗」という文字の意味は何なのか。辞書によれば、「美しいつのが出そろった、しかの形にかたどり、うるわしい・つらなる意味を表す」とあります。自然がなせる、一つの美です。
私たちには、生来、〝美〟への憧れがあります。〝美〟は、例えば、感性的・知的・霊的次元から捉えることができます。感性的とは感覚によって、知的とは理性によって、そして霊的とは、魂あるいはいのちによって、という意味です。いずれにしても、しかし、〝美〟の根源には秩序があります。それはまた、調和、安らぎ、そして平和につながります。
真の〝美〟は、「きれい」といった単なる感性のレベルを超えて、より深い次元へと向かいます。その意味で、それは、人間の生き方そのものにおいて現れてきます。
一人の人間が最も美しくなる時――それは、その人が無私の心あるいは献身的な心で誰かに仕える時ではないか、とそう思います。イエスは、語りました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために来たように」(参 マタイ20・26~28)〝仕え合う〟こと――それは、〝愛し合う〟ことにほかなりません。
「麗澤」という言葉があります。その意味は、次のように語られます。
「連なる二つの沢がたがいにうるおし合う。 友人同士ではげまし助け合って学問や徳を修めるのに努力すること」。
詩編には、次のような言葉があります。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」。(133・1)