言葉は、他の人と交流するためだけでなく、自分を認識するためにも欠かせない道具です。
知能の発達は、言葉の修得にあるということを昔、アメリカの社会福祉事業家で、目も耳も口も効けない三重苦のヘレン・ケラー女史が、日本にも何回か訪問され、各地で講演したことがあります。サリバン先生がヘレン・ケラーを助けたのは、冷たい水を手に流しながら、「水」という言葉を教えたことで始まりました。学業の進歩にも言語の修得は極めて重要です。
しかし、他方において「沈黙は金なり」という諺があります。これはどういう意味なのでしょうか。
私は東北出身なので、しゃべることは得意ではありませんでした。どちらかというと今と違って、学校でも寡黙な方でした。だから、しゃべるのが得意ではないということは一種の劣等感になっていました。
それを他県に移ってから克服しましたが、修道院という沈黙と静寂を重視する環境に入ったとき、沈黙の素晴らしさに気づきました。それは深い心の平安を体験したからです。あたかも静かな湖の面に月の光が映るように、霊の世界が垣間見られるような甘美さを経験したのです。これがあったからこそ、生涯、修道生活を愛することが出来たのです。
言葉の素晴らしさも分かりますが、沈黙の素晴らしさは、内的平安と甘美さを味わえることではないでしょうか。
聖書の中にもあります。預言者エリヤに神さまが出現なさったのは静けさの中でした。本当の沈黙は、思考や感情を無にすることです。その時、神の声が聞こえてくるでしょう。(参 列王記上19・12)