
12月24日・25日がクリスマス・イヴとクリスマス当日であることは、キリスト教徒であるなしに関わらず知っていて、ほとんどの人が、この日がイエスキリストの誕生日だと認識しています。そして西暦はこのキリストの誕生を、ひとつの基準としているのも事実です。
では本当にキリストの誕生日かというとそうではなく、クリスマスとはキリストのミサという意味で、単に誕生を祝うのではありません。この世に神の御子が存在することを祝う気持ちこそが、クリスマスと云えるのでしょう。そうであるならば信仰を持つ者には、毎日がクリスマスであると云って良いと思います。
福音書の記述によると、イエス・キリストの誕生の経緯を書き記しているのは、マタイとルカの2人です。マルコは洗礼者ヨハネが荒れ野で叫ぶ者として先ぶれとなり、イエスが洗礼を授かるところから書きおこしています。ヨハネもまた洗礼者ヨハネが先ぶれとなって現われ、神と共にある言葉がイエスによって肉となり、次々と神のみわざが現実に起きていく様子が書かれています。
こうして聖書を読み、黙想していくと聖歌の「神共に居まして、行く道をまもり」の通り、毎日がクリスマスであることの喜びを、ひしひしと感じます。
盛り場にクリスマスセールの文字が躍り、ジングルベルが流れる年末が本当のクリスマスとかけ離れている事は勿論ですし、待降節に入り今年も無事に過ぎていく事の感謝と共に、恵まれない人々に幸福を分かちあいたいと、行動するシーズンとしてのクリスマスは大切です。
でも毎日がクリスマスという信頼と希望のメッセージをもっと多く人々に伝えてあげなければと思うのです。

今からもう40年余り前に、評論家の犬養道子さんが「一杯のスプーン運動」を提唱された。私が結婚し、子どもが生まれた頃の話である。世界の貧しい子どもたちのために、今、自分の出来ることをしましょうという心に響く誘いかけであった。
その頃、私たちは本当に貧しかった。
夫は現代美術家、私は作家志望の2人とも夢だけは大きいが、現実的には、当時、1ヶ月450円であった国民年金でさえ、支払いがとどこおりがちの生活であった。
しかし、私はそんな中でも奮起した。1ヶ月、1000円くらいだったら、何とかなるだろうと思ってその運動に参加したい旨の手紙を書き送った。すると思いがけずに犬養道子さんより丁寧な御礼の葉書が届いた。
葉書にびっしりと小さい文字が並んでいた。超多忙な人なのに一介の主婦に対し、真心のこもったお便りをくださったのである。
私が現在、あちこちに寄付を続けているのは、この一杯のスプーン運動がきっかけである。たとえ貧しくても「分かち合い」に参加できたことは私の大きな喜びとなり、私たち一家に神さまの光が降り注ぐように感じられた。
先日も不思議なことがあった。2ヶ所より寄付を求められ、各2万円、4万円送った。
1週間ほどして、何気なく鏡台の脇に置いてある、小タンスの引き出しをあけると、花模様の祝儀袋が目についた。私がいつも、何かの折に使っている簡易な祝儀袋である。手にとって中を見ると、入れた覚えの全くない4万円の新札があらわれてびっくりした。
私の分かち合いの心に神さまが喜ばれて、ごほうびをくださったのだ。私は今、この4万円をクリスマスの頃、どこへ寄付しようかと楽しい楽しい想像をしている。