
「最後の審判」や復活など、聖書には死後のことが色々と書いてある。だが、残念ながら、わたしたちが生まれる前にどこにいたのかということは書かれていない。わたしたちはどこからやって来たのか、想像力が膨らむところだ。陶芸家の手から茶碗が生まれてくるように、人間は神様の手の中でこねられ、形を与えられて生まれてきた。わたしはそんな風に想像している。
神様は最高の芸術家だ。作品を創るときに、決して妥協することはない。どの作品にも愛情を込め、これでもかというくらい完璧に仕上げてこの世界に送り出す。わたしたちは、誰もが神様の最高傑作なのだ。失敗作は1つもない。もしわたしたちが自分に不満を持ち、「わたしなんかダメな人間だ。生まれてこなければよかった」と言えば、神様はきっと悲しまれるだろう。
神様という芸術家は、無意味なものを決して創らない。必ず、何か使命を与えてこの世界に送り出す。生まれてきた以上、わたしたちの人生には必ず意味があるのだ。人生が思い通りにならないときや、大きな失敗をしたとき、わたしたちはつい、「自分の人生には意味がない」と考えてしまう。だが、それは単に「意味が分からない」ということであって、「意味がない」ということではない。神様がこの世界に送り出した以上、わたしたちの人生には必ず意味があるのだ。
ときどき、「わたしは、誰からも望まれずに生まれてきた」と嘆く人がいる。だが、そんなことはありえない。神様が望まなければ、誰もこの世界に生まれてくることなどできないからだ。わたしたちは誰もが、神様の愛の中から生まれてきたかけがえのない生命であり、神様の最高傑作。そのことを忘れないようにしたい。

「あなたが産声をあげた時・・・存在そのままで価値がありました。」
東京に出かけた時、山手線の電車の中で見た広告のメッセージに目が留まり、大変印象に残りました。
どこかのキリスト教教会が伝えるこのメッセージは、「あなたがこの世に誕生したこと、そのままで、存在そのものを喜んでくれる人がいる」ということです。かりに、たとえ望まれずに生まれて来たとしても、父なる神様は、1人ひとりの人間に対して、「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも私があなたを忘れることは決してない」(イザヤ49・15)と、断言してくださいます。
クリスマスは、神の独り子が人間の赤ちゃんとしてお生まれになったことを祝うことです。何故、神の子が無力な人間の赤ちゃんとしてお生まれになったのでしょう。それは、か弱い何もできない赤ちゃんとして生まれるすべての人々が、神様の独り子であるイエスのように、弱さや無力さ、貧しさにかかわらず、その存在の中に神様のいのち、本質そのものを宿しているということを証しするためです。
イエスは、ごく普通の子どもと同じように誕生し、人間の親に育てられ、少しずつ神の子として成長していきました。イエスの3年間の公生活の宣教活動を準備したのは、故郷で、両親と共に、ほとんど人目に触れることなく過ごされた、長い日常生活でした。言い換えるなら、パッとしないような日常のくり返しの中にも、私たち一人ひとりの存在を慈しまれる父なる神の思い、私たち一人ひとりのいのちを喜ばれる父の愛が満ちていると言えるのではないでしょうか。