クリスマスを祝う習慣は、日本でも、もうすっかり定着したようだ。それでも、クリスマスが善き恵みであることは、まだよくは知られていない。
昨年のクリスマスイヴの朝、電車の中で、こんな会話が聞こえてきたそうだ。「ヨーロッパって、クリスマスに宗教絡めるらしいよ。教会行ってお祈りしたり」「何それ、折角のクリスマスなのに」。クリスマスの由来と意味を知らない故の会話なので、微笑ましいが、同時に残念な気持にもさせられる。彼女たちの「折角のクリスマス」とは、恋人との特別な夜や、楽しいプレゼント交換パーティなのだろうか。だとしても、悪いわけではないが、なぜ贈り物をし合う日なのかを考えてみるだけで、知らなかった世界が新しくひらけてくるのではないかと思うのである。
教会のクリスマスの飾りつけは美しい。灯された明りは、通りかかる人を明るませ、羊飼いや子羊の飾りは、浄らかさを見る人に分け与えてくれる。どんな華やかなイルミネーションより、この灯は人の心を打つ。それは、この灯が、かつて或る小さな馬小屋に灯り、人々の大きな喜びとなった光だからだ。遥かな道のりを旅して来て、今も一人一人の喜びになろうとしている光を、私たちは見ているのである。
教会の前を通りかかった人が、ふと目を止め、足を止めることがあるのは、聞こえてくる祈りの中に、時を越えてあふれる光や声が感じられるからではないだろうか。
電車の中にいた声の持ち主も、心を引かれる何かがあって、イヴの日に教会の話をしたのだろう。彼女の心を引き寄せた見えない手、そしてその手に静かに包まれている光を、私はクリスマスの恵みと呼びたいと思う。