
東大阪で教会を担当していたときに、その教会は創立50周年を迎えました。そして教会の信者さんが、「心のともしび」執筆者の今井美沙子さんの幼友達であることから、今井さんを迎えての講演会を発案してくださいました。
今井さんの、楽しい中にも大切な人との接し方を示してくださる話なら、幼稚園のお母様方にも子育てのヒントになるかもと、敷地内の、同じく50周年を祝う幼稚園と共同開催を提案することになりました。
しかし、幼稚園の方はあまり乗り気ではなく、当日の会場として幼稚園のホールは借りられたのですが、人が集まらないのではとの懸念が出てきました。
案の定、当日200席用意してあった椅子が、半分しか埋まりません。せっかくお越しくださった今井さんに人数が少なくて申し訳ないとの思いが私の中に沸き起こってきました。
そこで、場を盛り上げるための一つの案を考えました。話し手の内容で共感できるようなところを、大げさにうなずくのです。また、私の声が大きいので、笑いを誘う話になると、大声でフロアーから反応するというわけです。今井さんの話に、私は一言も漏らさず反応できるようにと、まなざしを今井さんの方に向けていました。すると、今井さんも私の存在を意識して、私にまなざしを向けて話をするのです。不思議な一体感を感じました。
大成功で、近所の人も、満足げに帰って行きました。
しばらくして、マクドナル神父様から「今井さんから、おもしろい神父がいるから声をかけてくださいと頼まれました」と電話があり、私は「心のともしび」のメンバーに加わったのです。
「まなざし」ということを考えるとき、この思い出と共に、クリスマス、私たちのためにイエス様を贈ってくださった神の愛のまなざしを感じるのです。

大丈夫?頑張ってね、応援してるよ。その様に言ってもらい、何かにチャレンジするのを遠くから、近くから見守って貰った嬉しい経験はありませんか。また何か失敗してしまい、冷たく見放されて、遠くから、近くから冷たい視線を浴びた経験はこれまでありませんか。どちらも相手から見られるわけですが、それはまなざし。そこにはまなざしがあります。
自分にとって気になる相手の一挙手一投足に一喜一憂することも多い様に思いますが、その相手のまなざし、また声援が何かを行う上での力になりますね。自分のすぐ近くからのまなざしであっても、見えない遠くからのまなざしであっても。
その様に自分に向けられるまなざしが、自分にとってとても大きな力を持つのであれば、言うまでもなく、自分から誰かへのまなざしも相手にとって大きな力を持つのでしょうね。私たちは「自分は一人で生きている」と思っていても、決して一人だけで生きているのではありません。必ず誰かと触れ合って生きています。たとえそれが一瞬の刹那だったとしても。
自分が誰かに向けるまなざし、それが自分から水知らずの誰かへのものであったとしても、相手が気づくか気づかないかにかかわらず、そのまなざしは大きな力を持つことでしょう。そのことを心に留め、一日一日を生きようとするならば、私のまなざし、自分のまなざしは一体どの様なまなざしであるのか、大切にしながら歩んでゆく必要があるのでしょうね。
私のまなざし、私たちのまなざしが、私たち一人一人を見守られる神の温かなまなざし、人を思いやるまなざしと同じものになってゆきます様に。まなざしで支え、支えられながら、ともに歩んでゆくことができます様に。