まなざし

中野 健一郎 神父

今日の心の糧イメージ

 「まなざし」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、祖母の笑顔。にっこりと私を見つめる優しいまなざしが、「ケーン」と呼びかける声とともに蘇ってくる。

 幼い頃の私は反抗期が激しく、母に歯向い叱られては、泣きながら隣りの祖母の家に駆け込んでいたが、祖母は初孫同然の私を大変可愛がってくれた。縁側の雑巾がけを私が手伝うと、なぜかいつも梨をむいてくれた。食べる私を笑顔で見つめ、「ケンは可愛いかー」と言いながら頬に口づけを連発してくる。祖母の目を盗んで頬をこっそり拭き、食べ終わると祖母は私を香台(家庭祭壇)の前まで連れて行った。祭壇に飾られた祈る少年サムエルの絵を見せ、「心がきれいで素直か子どものお祈りば、神さまは一番聞いてくれるとよ。ケンもこがんふうにお祈りする人にならんね」と言う。

 日曜日には、浦上キリシタンの末裔である祖母は手を引き、私をミサに連れて行った。坂の途中のマリア像の前で祖母に「ここでは必ずお辞儀よ」と言われ、今でもそこを素通りできない。また祖母の家にお泊りし一緒に夕の祈りをすると、祖母は「聖マリアの連祷」を何も見ずにスラスラ唱えている。私は祖母を尊敬のまなざしで見つめた。やがて私は大人になり、帰省して祖母の死が間近の病床へ駆けつけると、普段は無反応だったはずの祖母は首を動かし、涙目でしっかり私にまなざしを向けてくれた。祖母が召された後、形見にロザリオをもらった。香台にはマリアさまが10人以上おられた。

 祖母はマリアさまをしっかり見つめていた。マリアさまは慈愛に満ちたまなざしで、幼な子イエスさまを見つめておられる。私もそのようなまなざしで、神と人をしっかり見つめ続ける者でありたい。

まなざし

崔 友本枝

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 人のまなざしは雄弁だ。愛情ある暖かいまなざし、疑い深いまなざし、尊敬のこもったまなざしなど様々な表情を見せる。

 聖書を読むとわかるが、イエスは周囲から罪深いと思われていた人を決してそのようには見なかった。たとえば、井戸のそばで出会ったサマリア人女性。彼女は町で評判が悪かったので人目を避け、暑い時刻に水をくみに来た。イエスは彼女に水を飲ませてほしい、と頼む。初めは警戒していたが、女性は少しずつ心を開く。イエスのまなざしが他の人のようではなかったからだ。語りあううちに女性は本来の自分を取り戻していく。まなざしは心の表れだから。

 さて、日本には外国人の就労者が大勢いる。多くは苦しい事情を抱えた人たちで、過酷な仕事を低賃金で引き受けている。私たちは彼らをどのようなまなざしで見ているだろうか。

 彼らはビザが1日でも切れると「非正規滞在者」とみなされ、無期限で長期間収容されることになる。ひと部屋に2~3人が住み、外出は許されず、1日の大半はその部屋から出られないので心身の健康を損なう人が多い。また、病気になっても健康保険証がなく治療を受けられない。時に、入国管理局が幾人かに「仮放免」として施設外の生活を認めることもあるが、就労が禁止され、居住地から移動の自由もないので仲間や支援者からの援助で苦しい生活をしている。このことは公にマスコミで報じられている。

 外国で就労できず、一切の社会保障がなければ、どうやって生きられるだろう。私たちは同じ人間として彼らを支援しなくてはいけない。

 神さまが人を見つめるように、私たちも彼らを見つめられるよう、主よ、どうか助けてください。


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