
クリスマスのことを考えると、いくつもの感動的な場面があります。まず、大天使ガブリエルがマリア様に現れて、御子を身ごもることを告げる時のことです。マリア様は恐れ、悩みながらも、自分にはわからないけれど、神様のお言葉の通りになりますように、と答える場面です。あの方の一生は、ずっとそのことの繰り返しでした。どんなに大変だったでしょうか。そのことを考えると、私たちは自分の大変さなど、とても文句は言えないと思ってしまいます。ただ、この困難にも、きっと何かの意味がある、そう思うことが出来るのではないでしょうか。
私の机の上に、フランスの修道女が作った小さな少女マリアの像があります。
その像のどこが好きかと言うと、とても真面目な表情の少女は、両手を体の脇におろして、その手をすっかり広げて立っているのです。この像の裏には受胎告知、とタイトルが書いてあります。そのことに気がついた時、本当に驚き、感動しました。受胎告知とは全てをあなたにお任せします、と言って、自分の手を空っぽのまま差し出すことだったのだと気がつかされたのです。
私には、カトリック教会がマリア様を大切に思ってきたのは、そのためだったのではないかと思えるのです。どのようなことが待ち受けているかわからなくても、自分に与えられた呼びかけに従おうとすること。きっと、それがまず最初に私たちに与えられるクリスマスのメッセージではないでしょうか。そして、このことなしには、救い主は私たちに与えられなかったと思うと、私たちの人生も、この少女のように、両手を広げて「お任せします」と言い続けることではないかと思います。

私は聖地イスラエルを訪ねたとき、3回とも、ベトレヘムの羊飼いの丘の教会に参りました。なんとなく好きだからです。
1回目の時は、30年以上も前のことですが、数名のシスターたちとそこの聖堂でミサを捧げたのが、なつかしく想い出されます。
ルカ福音書によれば、クリスマスの夜、主なる神の天使がそこの羊飼いたちに現れ、「民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町、すなわちベトレヘムで、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と言われた、とあります。(2・10 ~11 )
神の御子が、マリアを母として人間になられ、可愛い赤ちゃんとしてベトレヘムにお生まれになったということは、人類の救い主になられたということを意味しています。ですから、この真実を信じ、受け入れる人は、救われ、永遠の命を頂くのです。ですから、喜ばずにはいられないでしょう。
また、救い主の降誕は、この世で悩み、苦しみ、悲惨な思いをしている人びとに救いの希望を与えます。なぜなら、主キリストは、彼らの救いと永遠の幸せのために、十字架を担われ、エルサレムのカルワリオの丘で磔刑に処せられ死なれたからです。しかし、キリストは、3日目に栄光の体で復活されました。それは、人類の救いの希望が、必ず実現することを保証するためでした。ですから、私たち人間は、どんなにひどい状況にあっても、未来にはもっと素晴らしい世界が訪れることを信じて、希望と喜びのうちに生きていくことができます。
その根底にあるのが、父なる神と御子イエス・キリストの私たちに対する無条件の愛といつくしみにほかなりません。