私たちはカトリック教会の公共要理の一番最初で次のことを学ぶ。
「人がこの世にいるのは天主を認め、愛し、これにつかえ、ついには天国の幸福を深めるためであります」と。
天国へいくためにどうしたらいいか、早く気づく人もあれば、なかなか気づかない人もいる。
しかし、最期の瞬間に気がつき、それまでの罪状をゆるしていただき、天国へ迎え入れられた人もいる。
それは、ルカ福音書の23章39節から43節に記されている。
イエス様とともに十字架にかけられた犯罪人の一人が「お前はメシアではないか。自分とおれたちを救ってみろ」と、ぼうとくの言葉を吐いた時、もう一人の犯罪人はこれをたしなめて、「おまえは同じ刑罰を受けていながら、まだ神を恐れないのか。われわれは自分のやったことの報いを受けているのだからあたりまえだが、この方は何も悪いことをなさってはいないのだ」と言い、「イエスさま、あなたが王権をもって来られる時にはどうかわたしを思い出してください」と言った。その時イエスさまは「あなたによく言っておく。今日、あなたはわたしとともに楽園にいるであろう」とおおせられた。
どんな罪を犯した男であったか、詳しくはわからないが、どんな極悪人であろうと、最期の瞬間に魂に気づきを感じ、神様に心からのお詫びを申し上げたら助けられるのである。
年を重ねるに従い、聖書の言葉がひとつひとつ心にしみとおる様になって来た。今はこの犯罪人の回心の言葉が更に心にしみとおる。
神さまはひとりひとりの人間の最後の瞬間にまで希望を与えておられるのである。