「嘘も方便」という日本の諺を聞いておりますと、虚偽を語る事が生きる上での原理だと、多くの人が誤解してしまうのではないでしょうか。主なる神様は、そんな私達に、モーセを通して、「偽証するなかれ」という生きる指針を与えて下さいました。(出エジプト記 20.16)
ホンジュラス滞在中、多くの人が、「神様が望まれれば、明日会おう」と言うような約束の仕方をしていました。初め、約束を果たせるか否かの責任を、神様に帰すのは不誠実ではないかと考えたものです。けれども、現地の状況を理解するに従い、彼らの心情が分かってきました。社会の情勢が不安定で、病気も蔓延する社会の中では、あのような約束の仕方しかないのだろうなと考えるようになりました。
そのような状況が、昨今、世界中に広がっています。日本でも、感染症の蔓延や天候の不具合で、会議やイベントが軒並みキャンセルになる事も稀ではなくなってきました。このような状況下で、私達は、約束事をどのように捉えれば良いのでしょうか。
イエス様は、「一切誓ってはならない」(マタイ5.34)と仰いましたが、教会の中には、結婚式や司祭叙階式、修道者の誓願式など、大きな約束事の式典があります。イエス様が、「一切誓ってはならない」と仰ったにも拘わらずです。当事者は、どのような気持ちで、このような約束をするのでしょうか。
誓願式についての、ある神父様の説明です。誓願の字を縦にすると、誓、つまり誓う事は、願の上にあります。願いが土台で、願いながら誓うと言う事。つまり、この約束を守れますようにと、願いながら、誓うのです。現在の混沌とした状況下で約束をする際、そのような誠実さを持つ事が出来たらと思います。