いろいろなマラソンのレースを沿道で応援するのは楽しみの一つである。目の前を過ぎて行く選手たちの速さや、放たれる気迫にはいつも驚かされる。選手たちは皆孤独に見え、勝つことを目指すプロスポーツは、なんと厳しく過酷なものかと思う。
大規模な市民マラソンであれば、プロ選手たちの後から、大勢の市民ランナーが走ってくる。早々と足が上がらなくなる人がいたり、皆苦しそうなのに楽しんでもいて、声を掛け合う様子などは、お祭りのように賑やかだ。
ランナーたちが走る「道路」は同じだが、進んでいる「道」は一人一人違う。マラソンの長い距離はよく人生に喩えられるが、その喩えに倣うなら、参加者1万人が1万通りの意味深い人生の道を進んでいるのである。
人々の前方にひらけ、そして後方に続く道。
日本では柔道、剣道、また茶道、書道というように、スポーツや習い事に「道」の字をつけて表してきた。それは単に技術を習得するだけではなく、技を身につけ、磨くことを通して、人が生きるべき道を求めていく姿勢を示してきたのだと思われる。鍛錬することで、人は心も強くなり、高い精神性を得られると考えられてきたのである。
自分自身がどんな人生の道を進んで来たかを振り返れば、未熟な失敗ばかりが思い出されて恥ずかしい。だが、どんな道であっても道の上にいるなら、それは必ずどこかに着くものだ。とどまらず進み、求め続けていればいいのではないだろうか。厳しく孤独な走りでも、仲間との楽しい走りでも、1万通りの走り方がある。「わたしを通って行きなさい」と手を差し伸べてくださる方が見える時もある。