新型コロナウィルスの感染拡大がピークに達しようとしていた、今年の聖週間の事です。
主日のミサが中止となって1か月以上経ち、四旬節は信徒一人一人が独自の方法で、反省と祈りと聖書朗読で日々を送りました。
聖週間の初日となる「枝の主日」。ミサは中止でも棕櫚の葉を入口に用意した教会がある一方、キリストのエルサレム入場の再現として神父様を聖堂に迎える際、会衆が棕櫚の葉を打ち振り、神父様から祝福を受けるという一連の儀式にこそ意味があり、ミサが行われないのに用意する必要はないと決定した教会もありました。
最後の晩餐を記念する聖木曜日も教会は静まり返っていました。
遂に国が緊急事態宣言を発令するまでになり、外出の自粛が求められましたが、足腰を弱らせないようにと散歩は奨励されていました。
キリストの受難の日である聖金曜日を迎え、私はせめて「十字架の道行き」をしてご受難を黙想しようと思い、午後2時に家を出ました。キリストが息を引き取られた3時に最後の祈りを合わせたかったのです。この1か月散歩を兼ねて度々聖体訪問に教会を訪れましたが、大抵無人でした。ところがこの日、教会では既に数名が道行きを始めていらっしゃいました。私も追いかけて一緒に祈り、14留までをゆっくりまわりました。
普通に日曜毎のミサに預かって、ご聖体を頂いて安心する信仰習慣がコロナ騒ぎで断ち切られた事で、一人一人が自らの信仰を自らの意思で問い直し、自らの言葉で祈る事の大切さに気付かされたのです。
思い返せば、私が長年描いてきた殉教者や潜伏キリシタンたちは、神父様が不在の250年余りの間、互いの心を一つにして祈り、支えあって信仰を守り抜いたのです。