「人は生きてきたようにしか死ねない」と言われます。
私達が、日々何を選択しながら生きているのか、その集大成が死の時であり、その時、「自分は幸せな人生を送った」「自分はやるだけやった」と言えるような人生を送る事ができたらと思います。
それでは、自分は何を選択しながら生きてきたのかと考える時、洗礼を受ける前と後では選択の基準が変わったと言う事が言えます。洗礼を受ける前は、自分の思い、感情を基準に物事を選択してきました。それは、自己中心的な選択、また感情を基準にしていましたので、移ろい易い選択だったとも言えます。
大学生の頃、教会に通うようになり、自分の思いではなく、神様の思いに従って生きる生き方がある事を知りました。それは、自分の思いよりも、神様の思いを選択しながら生きる生き方です。そのような人生を送っている人達の、幸せそうな姿を目の当たりにしながら、自分も受洗の恵みへと導かれました。
受洗後、自分の思いを選択するか、神様の思いを選択するか、その狭間で葛藤しながら歩む人生が始まりました。自分の思いを選択する生き方は、その場は幸せそうでも、しばしば刹那的で、時の経過と共に、その幸せが儚く消えてしまう、そのような状態へと私を導きました。逆に神様の思いを選択すると、その選択の当座は非常に苦しい思いをするとしても、時の経過と共に、「あの時、あの選択をして良かった」と言う思いがいつまでも心に残り、私の心は喜びに満たされました。
自分の思いよりも神様の思いを選択しながら生きて行く事が、本当の幸せに至る道なのだと、今強く感じています。
神様に信頼し、神様の思いを、これからも選択しながら生きて行きたいと思います。