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その時『わたし』は

岡野 絵里子

今日の心の糧イメージ

 心の奥に折りたたまれている記憶をそっと広げてみると、そこには、まだ小学生だった時の光景が消えずに残っていて、細部まで生き生きと鮮やかであることに驚く。

 私にとって、小学校の入学は新しい世界への大きな入り口だった。学校に通い、勉強をする小学生になったことが誇らしく、自分はもう子どもではないとさえ思っていた。その辺りが本当に子どもだったわけで、今思うと恥ずかしい。

 そんな幼い自負心が、入学2日目には、早くも危機を迎えた。教室の外の廊下には、壁に上下2列のフックがついており、生徒は自分の出席番号の記されたフックに、運動靴をいれた布袋をかけておくことになっていた。だが、私の場所には、すでに誰かの靴の袋がかけられていたのである。

 たったそれだけで、私は泣き出してしまった。涙を拭いていると、廊下に遠慮がちに立っていた一人のお母さんが「どうなさったの」と近づいて来てくれた。その誰かのお母さんは優しく、両方の袋に書かれた名前と出席番号を読んでくれ、間違えた子の袋を正しい場所に戻してくれた。

 私はああ、そうすればよかったんだ、と学んだ気持ちになったが、それ以上に、子どもの背丈に体をかがめ、世話をしてくれた人の優しさが身に沁みた。その時、6歳の子どもは、この新しい世界には、切り抜けて行くべき困難や課題が沢山あるらしいこと、だが本当に困った時には、助け手が現れるということを悟ったのだ。

 その日から1年生の生活が始まった。革のランドセルが教科書や漢字ノートを入れ、日々を運んだ。困難は本当にあったけれど、天国から最強の暖かい助け手に見守られていると信じていたから、幸せな子どもだった。