共にある

岡野 絵里子

今日の心の糧イメージ

 「親切は本気でしなければいけない。僅かだけ与える好意は、かえって相手を不快にする」。これは、私の戒めの一つである。誰かに親切にしようとして、失敗した経験が何度もあり、その苦さつらさからこの戒めは生まれている。最近もまた失敗をしてしまった。

 雨も風も強い日だった。歩道で信号を待っていると、隣に車椅子の高齢の女性と傘をさしながら車椅子を押す若い男性が並んだのである。雨は横殴りで、1本の傘では防ぎきれない。私は思わず自分の傘を半分さしかけた。ところが男性が「いえ、大丈夫ですから」と強く拒否をする。信号待ちをしている間だけでも、と思ったが、再三の辞退に会い、それは叶わなかった。別れ際に、女性が気を遣って会釈して下さったが、膝も足もかなり濡れておられ、私の方が申し訳ない気持ちで一杯になった。

 声のかけ方が悪かったのだろうか、どうすればよかったのかとクヨクヨ考えてから、やっと自分の戒めを思い出した。私は「ほんの短い間でいいから」傘に入ってもらおうとしたのだが、彼らは「ほんの短い間だから」断ったのである。本当に助けを必要としている人にとって、形だけの親切など不快であり、迷惑に過ぎなかったのだ。

 私たちは一つの身体を持ち一つの魂を持ってこの地上に留まっている、という点では同じだが、置かれている場所にはずいぶんな違いがある。人生は不公平だ、と思っている人は多い。様々な条件のもとに生きている者が「共にある」時、最も必要なのは相手の身になった理解と思いやりなのだ。私たちは何のために「共にある」のか、それを考えれば、自然に手は伸ばされていくように思う。

共にある

村田 佳代子

今日の心の糧イメージ

「今この時、共に生きて愛して・・」で始まる乗りの良いミュージカルナンバーは「ラ・カージュ・オ・フォール(籠の中の道化たち)」というブロードウェイ・ミュージカルの終幕近くで歌われる有名な曲です。共に生きるのは家族であり友人であり地域の仲間です。歌の初めに、語り掛けるように「私は母の膝で聞いた、その母はまたその母の、おばあちゃんはまたその母の・・」という言い方で、人は生まれ落ちた瞬間から皆この歌を知っているはずと歌い上げます。

 また、私は子供の頃、漢字の「人」という字が支え合いの形をしていて、人は勝手に一人では生きられず、必ず誰かと支え合う存在だという意味を表すのだと教えられました。確かに、生まれてこのかた一定期間を、何から何まで自分一人だけで生きたなどという経験は私自身の人生にはありませんでした。

 一人旅には数回出かけましたが、必ず他人と出会い、人との関りは避けられませんし、会話を交わさなければ交通機関を使うことも宿泊もできません。

 人生は先ず家族と共に始まり、友人と共に学び育ち、次第に地域の仲間とも共に交わり、やがて、自分ならではの責任ある生き方を選んで社会人になり、生涯を全うすることになります。その間共にいた人との色々な別れも体験しますが、喪失感を引きずることなく生き続けることが出来るのは、永遠に共に在る方の存在があるからです。

 このことに気づいた人は、その方を神様と慕い、生命に感謝し祈ります。たとえ全く気付くことなく生きた人でも、自らの死と向き合う時、人間を超えた、共に在り続ける存在を意識せざるを得ないそうです。

 共に在る神様を自覚でき、祈れる日々に感謝です。


前の2件 3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13