共にある

古川 利雅 神父

今日の心の糧イメージ

 初めて何かをする時、初めてどこかへ行く時、一人だったら、とても心細いでしょうね。誰かそばで教えてくれればいいのに、誰か一緒に行ってくれればいいのに。その様に思ったことは誰にもあるのではないでしょうか。私たちが生きていく上で、寄り添ってくれる人の存在は、とても大きなものがありますね。

 自分が誰かと共にある、寄り添うことを考える時、相手のためを思って、適度な距離感を保つことは大事なことかも知れません。私が高校生の頃、人生の大先輩から奉仕についての次の様な話を伺ったことがあります。

 いつでもその人についていられるのなら、ずっと何かをしてあげても良いかもしれない。でもそうでなければ、その人が自立するのを見守ることが大切ではないか。他の人からは、近くにいるのに何もしない、たとえその様に見えたとしても。自立するのを見守りながら、何か危険が迫った時には、すっと手を差し伸べる。そんな姿が本当の奉仕ではないかと。

 大切な人に何かができる時、その時を大切にして心を込めて行い、ともに過ごす。これも共にある、寄り添うことの一つです。でも大切に想うがゆえに、離れているように見えても見守りながらそばにいるということも、共にある、寄り添うことの一つでしょう。どちらも大切なことは、相手の方を心から思いやる暖かな心。それがなければ、共にあり、寄り添うことはできないでしょうね。

 もしも一緒の場所にいることができなくても、相手のことを大切に想い、過ごすなら、その想いは相手の方の大きな支えとなるでしょう。たとえ想いが伝わらなかったとしても。

 小さな私たちですけれど、いつも大切な人と共にある存在、寄り添う存在となれます様に。

共にある

崔 友本枝

今日の心の糧イメージ

 「私一人では何も出来ません。しかし神と共にするなら何でも出来ます」という言葉があります。本当にそうです。

 いつも時間に追われている私が大きな病気もせず、これまで何とか複数の仕事と執筆、家事をやってこられたのは、朝一番に祈りの時間をとり、主に頼ってきたからだと思います。日中、たびたび「イエスさま、愛しています。共にいてください。これはどうしたらいいですか」と聞きながら行動するのがいつのまにか習慣になりました。

 30代の時に、目指していた道が閉ざされ、お金もなく、人生を台無しにしてしまったと感じて苦しんだ体験、大切にしていた何もかもを失った体験が、私にその習慣を与えてくれたのです。

 その頃、ある人は「ああ、あなたと話していると頭が混乱しそうだわ」と言いました。また、ある司祭は「とにかくたっぷり眠ってくださいね」と優しく言いました。つまり、平常心を失い、心のバランスを欠いているよう見えたのでしょう。しかし、私は厳しい試練にさらされ、大きな衝撃を受けて苦しんでいましたが、病気になったわけではありませんでした。

 この試練は、自分がいかにもろく、すぐに消えてしまう霧のような、はかなく弱い存在だということを自分に知らしめました。ですから、とにかく祈りながら、神さまに聞きながら歩を進める、それ以外に道はありませんでした。

 私をつぶしかねなかったこの試練は、かえってよりいっそう私を主に結びつけ、神が共にいてくださらなければ何も出来ないことを教えてくれました。


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