共にある

服部 剛

今日の心の糧イメージ

 私の執筆活動の人生が充実するようにと、妻は日々支えてくれています。仕事を持つ妻が忙しい時は私の出番で、数日の間は「パパの日」と思い、ダウン症をもつ息子の育児に奮闘。まだ言葉を話せない、ゆっくり成長の7歳の息子も〈今日はパパの日だな〉と分かるようで、いつも以上に無邪気な顔で、私に抱きついてきます。

 ところが、食事の際、苦手な献立だと、介助していてもなかなか口を開けません。お皿に手を突っこんだり、スプーンを放り投げたりして、周囲は汚れてしまいます。〈仕方ない...〉と頭では分かっていても、つい「コラッ!」と怒りそうになる自分がいて、食べ終える頃にはヘトヘトになることがあります。

 そんなとき、自分の心の狭さを感じます。そして、自分の力だけでは限界があることを知り、目に見えない神様に心から祈り、息子に関わるようにします。そうすることで、弱い私も(ふうっ)と一息ついて、落ち着いて息子と接することができるように思います。

 パパを慕って懐くのも、駄々をこねて手を焼かせるのも、ありのままの息子の姿。その両面を見守り、育み、愛情を注ぐのが親の努めなのでしょう。長所も欠点もある私自身にも、神様は"良し"として存在させてくださっているーーという感覚をふいに思い出すことがあり、〈それならば深い親心のまなざしを私も息子に注がねば〉と気づくのです。

 今後も、育児する上での壁はあるはずです。しかし、息子が生まれて間もない頃にダウン症の告知を受けた翌日、〈ありのままの息子を、確かにあずかりました〉と心の声で天へと叫んだ、あの日の祈りをもう一度心にとめて、少しでも妻の負担を減らせるように、決意する毎日です。

共にある

植村 高雄

今日の心の糧イメージ

 青春の頃も、色々な人生体験を積んだ男女も「何とも言えない寂しさ」に襲われるのが生身の人間ですが、その寂しさには神秘的な深い意味があるようです。

 その神秘的な意味について考えてみます。この寂しさの裏には、どうも神様の働きがあるようなのです。ですから軽率に、嫌な感情だ、と単純に決めつけないで、この「寂しさの意味」は何だろうと考える必要があるようです。

 親友が上手にそばに寄り添い共にいてくれれば、元気になりますが、親しくない方が儀礼的に無意味な言葉を呟きながら近づいてくると、益々、憂鬱になり孤立感すら感じるものです。孤立感を癒してくれるものは「親密性」や「愛情」です。

 70億を超える人類は、それぞれ異なる文化と環境で生きていますが、親密性や愛の感じ方も全部違うと言われていて、その一人ひとりが感じる愛の姿も、すべて違います。

 この各個人が感じる愛の姿を、専門用語で「愛の元型」と定義しています。

 孤立感で苦しむ人に寄り添い元気にさせる為には、まず、その人の「愛の元型」を探り出さない限り対処出来ません。その方がどんな時に、友情や愛情を感じるタイプなのか、冷静に観察する必要があるのです。

 その人が考え方を変えるか、体験の解釈を変えない限り、生涯、孤立感から抜け出せません。しかし、この孤立感を短時間の間に解決した事例を色々研究していきますと、意外に簡単に解決している事に気づきます。

 それは一言、短く「ああ神様」とつぶやくだけの事例です。

 本当に苦しいとき、寂しいとき、「ああ、神様、この寂しさをお救い下さい」と祈る人間に対して、宗教、文化を超えて、その祈りの叫びに神様が共に寄り添ってくださっているようです。


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