共にある

越前 喜六 神父

今日の心の糧イメージ

 人は独りでは生きられない。ですから、神さまは人を女と男に創造された、と旧約聖書の創世記の2章にあります。男女の関係だけでなく、同性同士でも、気が合う人が共にいてくれるなら、喜んで生きていかれるにちがいありません。

 私事ですが、わたしには10人の兄弟姉妹がいましたので、親を早く亡くしても、子どもの頃はあまり寂しいとは感じませんでした。けれども、兄や姉たちが、家を出て行き、家には兄嫁とその子どもだけしか残らなかったときは、すごく寂しく、生きるのが空しく感じられました。学校へ行っても、内気でおとなしい子だったので、親しい友人もなかなかできませんでした。そういう時に、ふとしたご縁で神さまを信じるようになりましたので、部屋でよく祈ってはいました。

 こうした寂しい思いがなくなったのは、高校を卒業し、兄が経営する出版社の出張所長として、東京神田の淡路町で、青年向きの雑誌の編集や書籍を出版していたときでした。

 ある大学が開催している公開講座に出席したとき、隣に座っていた女性と言葉を交わすことになり、それがきっかけで、彼女はわたしの事務所で働くことになりました。頭もよく、語学力も優れていたので、企画、編集などの仕事で随分助かりました。私は、独りで仕事をしていても、作家や評論家や大学の先生方を訪ねて、原稿の依頼をしていたので、働きがいも生きがいも感じられていました。けれども事務所では話し相手もなく、空しいものでした。それが、彼女が一緒にいて仕事をしてくれるだけで、どれほど心強く、頼もしかったか計りしれません。

 「共にある」人がいれば、人は張り切って生きるでしょう。その結果、きれいな花が咲くでしょう。

共にある

熊本 洋

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 「共にある」ということには、二つの意味があると思います。まず一つは、肉体的に同じ場所にいること、もう一つは、地理的に離れているが、心理的に「共にある」こと。この二番目の、心理的に「共にある」の方がより多く使われ、意味深長であると思います。いずれにせよ「共にある」ということは、心強いことではありますが、一人一人異なる人間、そう簡単なことではありません。

 たとえ、互いに遠く離れていたとしても、互いに同じ考え、同じ強い願望、同じ理想を持っているならば、人間関係はより強固であり、信頼関係も生まれ、「共にある」ことをより身近に実感するに違いありません。「同じ願い、同じ祈りによる共存」は誠に尊く、社会の安心・安全、そして、社会の健全な発展のため、尊重され、確保されねばなりません。

 「天におられるわたしたちの父よ、・・・」と、人々が「主の祈り」を唱えるときほど、人間の謙虚な姿はありません。この謙虚さの中に、心の平安、人類平和の可能性が秘められていると感じます。

 尊ぶべき「主の祈り」は、次のとおりです。

 「天におられるわたしたちの父よ、みなが聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。アーメン」

 この祈りとともに、人類の平和が一刻も早く到来することを願って止みません。


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