共にある

片柳 弘史 神父

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 聖書が描く人類で最初の殺人は、兄弟げんかがエスカレートしたものだった。弟アベルの捧げものだけを神が喜んだことに腹を立てた兄カインが、弟を殺害したのだ。カインを突き動かしていたのは、どす黒い嫉妬や、体面が潰されたことへの怒りだったと思われる。

 イエス・キリストも、たとえ話の中で兄弟げんかを取り上げている。父親からもらった財産を無駄に使い果たし、ぼろぼろになって帰ってきた弟を父が歓迎したことに腹を立てた兄が、弟を歓迎する宴の席に着かなかったというのだ。兄の心の中にあったのは、やはり嫉妬だったと思われる。

 人間が共に生きてゆくのを妨げる最大の障害物、それは嫉妬かもしれない。わたしたちはみな、誰かに愛されることを願っている。だが残念ながら、多くの場合、満足できるほどの愛を感じられず、自分よりも愛情を集めていると思われる誰かに嫉妬することになる。愛を求めて争い合い、滅びへ道をたどってゆくことになるのだ。

 ではどうしたら嫉妬を捨て、平和に生きられるのだろうか。そのために必要なのは、自分も愛されていると気づくことだと思う。

 人間からは、もしかすると十分な愛を得られないかもしれない。だが、わたしたちは、誰もが神から愛されている。わたしたち一人ひとりが神にとってはかけがえのない子どもであり、神はわたしたちに限りない愛を注いでくださっているのだ。

 そのことに気づくとき、わたしたちの心から嫉妬は消える。周りにいる人たちを、愛を求めて競い合うライバルではなく、共に生きてゆく兄弟姉妹と思えるようになるのだ。神の愛は無限であり、互いに競い合う必要などない。誰かに嫉妬を感じたときは、そのことを思い出すようにしたい。

共にある

遠山 満 神父

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 私達は、大きな苦しみの時、誰かが共にいてくれる事によって救われる事があります。けれども同時に、苦しむ人と同伴する事の難しさも、私達は良く知っています。旧約聖書の中のヨブ記には、その事が良く表現されています。

 全財産を失い、病気にもなったヨブを見舞いに来た3人の友人は初め、沈黙の内にヨブに同伴しますが、一週間を過ぎた頃から沈黙している事に耐えられなくなり、ヨブに説教をし始めます。それがヨブの感情を害し、口論になっていきます。ヨブを慰める為にお見舞いに来たのに、慰めるどころか、逆にヨブをもっと苦しめることになります。苦しむ人に、沈黙の内に寄り添う事の難しさを感じます。

 以前、ある神父様が、ヨーロッパの薬物依存症治療の病院での出来事を分かち合って下さった事があります。その病院を見学された時、この神父様は、一人の依存症患者の青年が、ベッドに縛られ、禁断症状に喘いでいる姿をご覧になりました。ただ、その青年は、一人ではありませんでした。ベッドの傍らにその青年のお母様が、苦しそうな表情を浮かべて、共にいらしたのだそうです。禁断症状の苦しみから解放してあげる為には、薬物を上げれば良いのですが、それは出来ない事です。我が息子を、助けたくとも助ける事が出来ない。回復の為には、時間が経過するのを待つしかない。そのような状況だったに違いありません。

 聖書の中の神様は、しばしば「インマヌエル」(共にいる神)と呼ばれます。神様は、この母親のように、私達が苦しむ時、共にいて下さるのだと思います。そして、その苦しみが私達の救いの為に必要ならば、傍らに居て、黙って共に苦しみ、寄り添っておられる、そのような神様なのだと思います。


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