わたしが抱く平和

小川 靖忠 神父

今日の心の糧イメージ

 人それぞれに、住んでいる環境、年齢に応じた関心事があるだろうと思います。わたしも、年を重ねていくにしたがって、「安心」「安全」「平和」ということが気になり始めています。というより、以前より強く感じるようになりました。

 「終わることを知らない戦争の連鎖が、より危険な武器の量産をあおっている中、キリストの復活力と喜びだけが慰めと平和で心を満たしてくれる」と教皇フランシスコは語っています。

 確かに、わたしたちの周りでは、不安をあおるたくさんの事件事故が絶えません。これらのできごとが示しているのは、人間の手には、到底負えるものではないということでしょうか。完全になくすことなどできないというメッセージでしょうか。それでも、わたしたちは、いつも「安心」「安全」「平和」を願い求めているのです。

 とどのつまり、求めている主体である「わたし」個人が、安心していますか、平和ですか、という問いに、「はい」と答えることができれば素晴らしいなと思います。つまり、安心、安全、平和は一人ひとりから始まるものであるということです。

 一人ひとりから始まった平和を分かち合った先に、「わたしたちの平和」「社会の平和」「世界の平和」へと輪が広がっていくのではないでしょうか。そうでないとすれば、「砂の上に立てた家」に等しくなります。順風満帆の時は穏やかでも、一度波風が立つと、すぐに崩れ落ちてしまいます。平和は、社会機関、制度という外からつくられるのではなく、一人ひとりの内面から、根源的には、「イエスの平和」を喜ぶ心から生まれ出るものであろうと感じています。

 その中身は、他者をゆるす心から創造される平和です。

わたしが抱く平和

越前 喜六 神父

今日の心の糧イメージ

 平和を願わない人はひとりもいないでしょう。しかしながら、現実の社会や世界は、争いや事件やテロなどが絶えません。

 なぜでしょうか。

 短絡的な言い方はできませんが、多くの人々が考える平和は、政府や団体や社会機関などが外部からもたらしてくれるものだと思っています。これだと世界がいくら経済的には豊かになったとしても決して平和は実現しないでしょう。なぜなら、平和だけではありませんが、人生のすべての出来事は、人々の意識が原因で生じているものだからです。

 多くの人々が、内心、不安や憎しみや恨みや反感を抱いていながら、いくら言葉で平和を叫んでも平和は訪れません。かえって、不和や争いの世の中になっていくでしょう。言葉で平和を唱えたり、平和を念じたりするときには、まず自分自身の心が、何ともいえない平安な気持に浸っていなければなりません。

 新約聖書の福音書に記されているように、イエス・キリストは山上の説教で、人々にこう言われました。「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と。(マタイ5・9)平和は与えられるものではなく、創造し、実現していくものなのです。言葉を換えれば、まず自分自身の心の中に平安を実現しなければなりません。

 わたしは修道会に入会し、最初の修練をしているとき、それを体験しました。無一物の中で、言うにいわれぬ平安を体験する時、周りの人々の間に平和を保つようにと努力するでしょう。なぜなら、自分が平安を味わっていれば、当然、他の人々をも平和にしようと努めるからです。

 言葉を換えれば、神に愛されていることが分かれば、自然に他者を愛し、平和をもたらす人になっていくからです。


前の2件 3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13