わたしが抱く平和

黒岩 英臣

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 つい先日、私が指揮をして、息子がピアノコンチェルトのソリストを務めるという、めったに無いコンサートが実現しました。私も妻も親ですから、これは実に嬉しい音楽会でした。

 リハーサルが終わって本番を待つ間、楽屋で休んでいた私達両親のところへ息子がやって来て、こんなことを話しました。息子の妻ミサちゃんが、体調が悪いにも拘わらず、今、新幹線でこちらへ向かっていること、おまけに、飼っている犬が瀕死の状態なので、終わったら挨拶もそこそこにすぐ東京へ帰らなければならない等々。

 これを聞いた妻は息子にこう言いました。「それは大変。じゃ、ここでぐずぐずさせないで、すぐ追い返しなさい」。

 そうしたら、息子は違う意味に採ったらしく、「何てことを言うの、一生懸命来ようとしているのに」と、少し怒ったようでした。これを見て、私は息子にこう言いました。

 「お母さんの気持ちはね、ミサちゃんの具合が悪いのと、ワンちゃんの世話をするために、こちら側のことには気を遣わずに、すぐに帰らせてあげなさいという事なんだよ」と。

 息子が納得して去った後、私が妻にあの言い方はよくなかったと指摘したところ、珍しく、妻は私に反発したのです。「私はそんなことは言っていない」と・・。今、言っていたことを、こんな風に否定されて、私は開いた口が塞がらない思いでした。

 「前にもこんなことがあったわよね」と妻が言い出しました。これは、相当な危険を孕んでいると私は覚悟しました。

 事実、私には、私達には、まだまだヘリ下って反省すべき余地がありそうです。幸い、妻も深く考え、思い直してくれたようで、主の平和は数日で私達の間に戻り、私はこの上なく嬉しいのです。

わたしが抱く平和

片柳 弘史 神父

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 わたしはいま、宇部の教会で80代の神父たちと一緒に生活している。一緒に生活していて驚くことの一つは、彼らが絶対に人の悪口を言わないということだ。誰かが人の悪口を言っても、決して同調せず、むしろ悪口を言われている人をかばおうとする。

 それは、彼らが長い人生の中で、人間の弱さを骨身に沁みて知っているからだろう。人間には誰しも弱いところがあると知っているから、決して相手の弱点を暴き立てようとはしない。むしろ、相手の弱さを労わり、よいところを見つけようとする。それこそ、弱さを抱えた人間同士が、共に生きてゆくために一番よい道だと知っているのだ。

 高齢の司祭たちは、不平不満を言うこともほとんどない。食事にしても、衣服にしても、居住環境にしても、与えられたものですっかり満足しているようだ。歳をとって欲がなくなったと言えばそれまでだが、どうも彼らには、それ以上の何かがある。彼らは、人間が幸せに生きてゆくために必要なのは、たくさんのものではなく、むしろ神に感謝する心だと知っているのだ。たくさんのものを欲しがっても、感謝する心がない限り、いつまでたっても心が満たされることはない。だが、感謝する心さえあれば、ほんのわずかなものしかなくても、満ち足りた気持ちで生きることができる。彼らは、それを知っているのだ。

 教会ではよく、「キリストの平和」という言葉を使う。世間の平和が、力によって周りの国々や人々を従わせることから生まれる平和だとすれば、「キリストの平和」は、謙虚な心で神の前に跪き、すべてに感謝することから生まれる平和だ。高齢の司祭たちは、この地上ですでに天国の平和、「キリストの平和」を先取りしているように見える。


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