わたしが抱く平和

植村 高雄

今日の心の糧イメージ

 トルストイの「戦争と平和」は私の好きな小説の一つです。この小説を読みだすと、私が日々感じる色々な不安を、穏やかな平安感に変えてくれるからです。この平和な感情を大切にしたいと思うのですが、何故か毎日、色々な感情が湧き出してきて私の平和を乱します。

 さて私の青春時代の話ですが、大学の庭の片隅に美しい薔薇が咲いていました。その薔薇の一輪を手折り、胸に抱いて香りを楽しんでいる女性のクラスメートを見かけたことがあります。この風景は私の心を瞬時に麗しい幸福感に満たしてくれました。苦手なドイツ語授業でうんざりしていた私の心を元気にしてくれました。以来、インスピレーションには神秘的な力があると思うようになり、その折々の感情を大切にする習慣が出来たようです。

 卒業後の人生でも、次から次へと襲いかかる色々なストレスが私を不安感に追い込みます。心の平和に憧れて洗礼を受けたのですが、「愛する」という厳しい世界が存在していることを知り「愛による平和」を、この地上で建設することは不可能ではないのか、と悩みだします。

 神の愛を研究すればするほど、矛盾に満ちた現実に気づきます。戦争、飢餓、難民問題をテレビが報道します。愛である神様が、何故、このような現実を許しておられるのだろうか?と若者らしい悩みが始まりましたが、その後、宗教心理学を専門的に学びだします。

 特に「神様の愛を信じて見えてくるもの、見えなくなるもの」という研究は生涯の課題で、その答えは、人それぞれの人生体験から思索する必要があるのですが、どんなに厳しい現実がありましても、「神様の愛を信じると見えてくるもの」が確実にあることが分かりました。

 この信仰が私の平和の源のようです。

わたしが抱く平和

遠山 満 神父

今日の心の糧イメージ

 イエス様は、最後の晩餐の席で、弟子達に次のように言われました。

 「私は、平和をあなた方に残し、私の平和を与える。私はこれを世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。怯えるな。『私は去って行くが、また、あなた方の所へ戻ってくる』と言ったのをあなた方は聞いた」。(ヨハネ14・27~28)

 私達は、平和を、戦争のない状態と考えがちです。けれどもイエス様は、このような概念を超えた平和を、私達にお与えになります。それは、どのような平和なのでしょうか。

 イエス様は、先程の箇所に先立って、次のように言われています。

 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして私をも信じなさい。私の父の家には住む所が沢山ある。もしなければ、あなた方の為に場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなた方の為に場所を用意したら、戻って来て、あなた方を私の元に迎える」。(ヨハネ14・1~3)

 私達は、自分の心が不安で一杯の時、誰かからの抱擁、とりわけ親しい人からの抱擁によって、その不安が雲散霧消すると言う経験をする事があります。あるいは、そのような時、誰かから、とりわけ信頼する人から「祈っていますよ」と言われる事によって、心に平和を取り戻す事があります。それは、親しい人の心の内に自分が生きている事を再認識して、安堵する瞬間です。

 イエス様は、御自分の死と復活を通して、父である神様との間に平和を築いて下さいました。父である神様は、御子イエス様の業によって、私達を養子として受け入れて下さいました。「父である神様が、御自分の心の中に、私を受け入れて下さっている」と言う確信こそが、今の私の心の平和の礎となっております。


前の2件 2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12