わたしが抱く平和

熊本 洋

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 そもそも、平和とは何か。「秩序の静けさ」という哲学的な定義がありますが、誠に、明快な定義だと思います。これが「私が抱く平和」となると、その平和の意義は、明快さに欠け、あいまいになります。

 「わたし」とは、いったい、何か? について、明確な回答がないから、かもしれません。人、それぞれが抱く平和が、人によって異なると、平和は、共有できず、平和実現は、極めて困難ということになりかねません。

 「戦争か、平和か」とあるように、平和は、常に何か相手があってのことであり、一方的な平和はあり得ません。平和は、互いにこれを共有し、声をそろえてほめ讃え、謳歌すべきものだと思います。

 ところで、だれしも家庭にあっては、家族それぞれが、よき父、よき母、よき息子、よき娘として、その使命役割を果たし、平穏幸せな生活が営まれることを切望して止みません。

 また、家庭の外では、知人、友人との恵まれた人間関係を大切にし、親愛、友愛、敬愛の情を、いつまでも失わず、健全な人間として立派に成長、発展したいと願っています。

 家族の温かい愛情、友達の深い友情に育まれてこそ、充実した平穏豊かな人生が可能になると思います。

 それと共に、自分自身の心の中に起こりがちな不安や葛藤を適宜適切にコントロールできる「道」を体得し、心の平安を常に保持し続けたいものであります。

 その「道」とはなにか。第2の聖書と言われる『キリストに倣いて』第1巻の第11章「心の安らぎを求め、向上を熱望すべきことについて」には、冒頭「もし私たちが他人の言行や自分に無関係なことにかかわりあわないなら、十分な安らぎを得られるだろう」と述べられています。

 見倣いたいものです。

わたしが抱く平和

服部 剛

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 最近、先輩に勧められ、第2次大戦中、陸軍に看護婦として従軍した阿武千代さんの手記、「陸軍看護婦」を読みました。戦時中の中国に派遣され、日々運ばれる負傷兵の手当てをする著者の真摯な姿と優しい人柄が行間から伝わり、〈私はこの人のような愛を生きることができるだろうか?〉と自分に問いました。

 著者の生き方で、特に心に残ったのは、どんな状況においても希望を失わず、深いまなざしで日々出逢う一人ひとりをみつめていたことです。赤痢で亡くなった兵士の体を母親のように抱きながら拭く看護婦の先輩、仕事が上手くいかず沈んでいたときに温かい声をかけてくれた軍隊長、マラリアに倒れたときにそっとパンを届けてくれた同僚... 過酷な戦火を生きる人々の心ある姿が目に浮かびました。

 やがて終戦を迎え、中国から引き揚げる直前の兵営内では文化祭が行われ、著者は趣味の生け花を出品しました。その前向きな姿勢から、人間が生きがいをもつことの豊かさを感じました。演芸大会では手作りのギターや笛等の演奏が人々の心を潤し、引揚船のなかでは、ようやく日本へ帰ることのできる安堵と、外地での疲れ果てた人々をねぎらうために吹かれたハーモニカの音色が沁み入る様子が描かれています。それらの場面から、私は「音楽や芸術の存在意義」を思いました。

 終戦から70年以上の歳月は流れ、令和の時代になりました。戦争体験を語り継ぐ人が減ってゆくなかで、陸軍看護婦の手記が語っていることは、戦争の悲惨さ、理不尽さ、それに翻弄される人々の有り様、そして平和の尊さです。

 この本の最後に著者が語る「与えられた人生の一日をいかに受け取り、生きるかが大切です」というメッセージに私は今、想いを巡らせています。


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