マザーテレサにノーベル平和賞が授与されたのは1979年、もう40年も昔のことになる。見捨てられ死に瀕した人の手を握る、そこに大きな意味があることに驚き、献身的なマザーの愛の活動に感動したことを覚えている。
だが残念なことに、現代においてなお、恵まれた国々の豊かさの中にも、見捨てられたと感じている人々が数えきれない。彼らはインドの貧しい地区の道端に捨てられてこそいないが、日々の孤独に潰れそうになっているのである。
マザーテレサのノーベル賞受賞講演は、今読んでも変わらず感銘を受けるが、その後のインタビューにも考えさせられる。
記者の「世界平和のために、私たちはどんなことをしたらよいでしょうか?」という問いかけに「家に帰って、家族を愛してあげて下さい」とマザーは答えられたのである。
凡庸な私たちにとっては、遠い国へ行き、見知らぬ老人の手を握って看取るより、家族が手を握り合い、理解し合うことの方がはるかに困難だ。あらゆる争いが家族から始まっている人間の歴史を見直すまでもない。ごく身近なお宅での嫁姑の確執ひとつを思い出しても、家庭の平和がいかに難しいかがわかるだろう。
最も困難な課題が実は最も身近にあったのである。家庭が皆の心の拠り所、無条件で愛される場所であって欲しい。大切な人が孤独に潰れないよう、心の声に耳を澄ませていたい。深い井戸から響くようにかすかな、でも力強い声が私たちの中にある。それはより困難な道を行くことを囁き、生きる苦しみ悲しみを見つめさせる。それは良心と呼ばれるものかもしれない。その声に従って行きたい。平和はきっとその後にやって来る。
「パパは天国にいるの?」
全世界のカトリック教会では、今月は特に、亡くなられたすべての方を思い起こし、その方々の永遠の安息をお祈りするように勧めています。
冒頭の言葉は、ローマで、教皇フランシスコが子どもたちとの対話において、ある子どもが教皇に尋ねたものです。
それは、十字架の聖パウロ教会での出来事でした。その子の名はエマヌエレ君といいます。手渡されたマイクで話ができなかった彼を見て、教皇は「わたしのところに来て、耳元で話してごらん」と話しかけたのです。「少し前に僕のパパが死んでしまいました。パパは信者じゃなかったけど、4人の子どもみんなに洗礼を受けさせてくれた。良い人でした。パパは天国にいますか」とささやいたのです。
フランシスコ教皇は集まっていた子供たちに語りかけます。神の心について考える必要があると。
「誰が天の国へ行くかを決めるのは神です。どう思いますか?父親の心です。神はお父さんの心を持っているのです。」
教皇は続けます。「信者ではないけれども子どもたちに洗礼を受けさせることができた父親を前にして、神がその人をご自分から遠ざけたままにしておけると思いますか?」と子どもたちに問いかけます。子どもたちは答えて叫びます。「ノー」「ほら、エマヌエレこれが答えです」と教皇は少年に語ります。
この感動的なひと時から、わたしには感じることがあります。「祈り」って、今の自分の悩み、心配事、嬉しいこと、楽しいことをそのまま神に伝えればいいのだ、ということです。全世界の子どもの祈りは、ここに魅力があるのではないでしょうか。子どもの祈りには駆け引きはないのです。神に直行です。