毎年、9月の第3月曜日が敬老の日。年長者を敬うのは、人間の美しい業の一つではないだろうか。年長者が大切にされている社会こそが、本当に成熟し、豊かであるのだと思う。
「年長者」という言葉もまたよいものだ。「高齢者」という即物的な言葉より、「年長けた人」即ち「年長者」という表現の方が奥ゆかしく感じられる。「長ける」という言葉には、長い時間を経て盛りを過ぎたという意味もあるけれど、何かに熟達して優れているという意味もあるからだ。
年長けた人は、自分の中に長い過去の時間を持っている。その時間は、その人自身の人生であると同時に、人類の遥かな歴史の1部でもある。いわば人間の歴史を作って来た一人一人なのだ。その人たちがいてくれたからこそ、その時代も社会も成立し得たのだ。
そして現在、私たちは「年長者と共にある」社会に生きようとしている。約3人に1人が65歳以上、約4人に1人が75歳以上になる日も遠くない。
年々増加していく年長者と若い世代は、どのようにつきあっていけばよいのだろうか。それは大変難しいことのように思える。だが実は年長者は自分たちの未来の姿であり、年少者は自分たちの過去の姿なのである。お互いの価値観が異なるのは、異なる人生の時間の中にいるからなのだ。
まずは「共にある」ことから始めたい。共にあるとは、お互いの存在を許しあうことであるように思う。異なる価値観、立場を許さない間柄ほど恐ろしいものはない。戦争という人類最大の過ちを、私たちは反省しているはずなのだ。私たちは皆、年長者でもあり、年少者でもある。お互いが自分自身のようなものだ。自分自身を受け入れて、思いやりを持っていたいと思う。