たえず1歩前に

片柳 弘史 神父

今日の心の糧イメージ

 講演会などで、わたしはよく「あるがままの自分を受け入れることが、何よりも大切だ」と話す。すると時々、「神父様、子どもの前で、あまりそんなことを言わないでください。『あるがままでいいんだ』と開き直って、勉強しなくなります」と苦情が出ることがある。そんなときわたしは、間髪入れずに、「それは逆です。あるがまままの自分を受け入れられる子どもこそが、勉強してよい成績を取るのです」と答えることにしている。

 例えば、試験で思いがけず悪い点数をとったとしよう。あるがままの自分を受け入れられない子どもは、「これは自分の実力じゃない。たまたま力が出せなかっただけだ」と開き直り、戻って来たテストを机の奥深くにしまい込むだろう。だが、あるがままの自分を受け入れられる子どもは違う。「残念だけれど、これがいまの自分の実力だ」と冷静に受け止め、テストと向かい合って間違ったところを復習することができる。成績がどんどん伸びていくのが、後者であるのは間違いない。

 これは勉強に限らない。スポーツでも、仕事でも、成長してゆくのは、あるがままの自分を受け入れられる人だ。プライドが高く、自分の間違いを認めようとしない人が成長することはあまりない。先生や先輩から間違いを指摘されたときに、素直に受け入れ、一つひとつ直してゆける人はどこまでも成長してゆく。

 キリスト教には、「絶えざる回心」という言葉がある。人間の成長には、どこまで行っても完成ということがない。自分の不完全さを認め、神に立ち返ることで、人間は最後の日まで成長を続けるのだ。高すぎるプライドを捨て、あるがままの自分を受け入れる素直さこそ成長の鍵。そのことをしっかり心に刻みたい。

たえず1歩前に

堀 妙子

今日の心の糧イメージ

 私がライターとして少しずつ働くようになったのは、60歳に近づいた頃からだった。自分の職業はライターだと信じて努力をしてきた。今、「心のともしび」の原稿を書かせていただいている。

 また、61歳の頃から、およそ4年間をかけて絵物語を書き終えた。4年の間には挫折もあったし、スランプもあった。しかし毎回、起き上がって書き続けてきた。

 それができたのは、神さまが望まれたからなのだ。絵物語が終われば、私は何をすればいいのだろう。私はすぐに次の執筆の仕事を探そうとした。どこで探したらいいのかも検討がつかず、不安が霧のように立ちこめた。私はどこに行こうとしているのだろうと...。

 次の日の朝、天啓のように恩師から電話があった。「終わった仕事は忘れて、人に仕事を頼んだりして、借りを作ってはいけない。普通の仕事を探して、これは使命だと思う仕事に出会うまで、成すべきことをして待ちなさい」と言われたのだ。

 この言葉は、不安に苛まれて立ち往生していた私を、すっと1歩前に送り出してくれた。神さまが望まれたら書けばいいのだ。

 2、3日すると心が静けさを取り戻し、「心のともしび」には、朝、ラジオを聴いた方が幸せで心豊かな一日を過ごせるようなお話を書こうと思った。

 ふとあの大聖人である聖パウロのようなお方でさえ、日中はテント職人として働いていたことを思い出した。聖パウロは生活者としてきちんと働きながら、多くの信徒たちへ手紙を書き送っていたのだ。私にできる仕事を探そう。幾つか候補が見つかった。もし働かせてもらえるならば、控えめに、けれど自分の思いから、たえず1歩前に出て、明るく働いて行こうと思った。


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