たえず1歩前に

湯川 千恵子

今日の心の糧イメージ

 誰の人生にも3度は訪れるというビッグチャンス。そのチャンスの女神は前髪をつかめと言われます。つかみ損ねて後悔する人が多いのではないでしょうか。

 聖書にあるエリコというイスラエルの町で起きた奇跡を思い出します。(参:ルカ18・35~43)

 一人の盲人が道端で物乞いをしていて、群衆の足音を聞き「何事か?」と尋ね、「ナザレのイエスがお通りだ」と知ると「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい」と叫び続けました。イエスが多くの病人を癒した話を聞いて、彼の力を信じていたその人は、イエスが近くを通られるのを知り、必死で助けを求めたのです。

 イエスは立ち止まり、その人に、「何をしてほしいのか?」と尋ね、彼が「主よ、目が見えるようになりたいのです。」と言うと、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。瞬時に見えるようになったその人は、「神を褒め称えながら主に従った。民衆もこぞって神を賛美した」と書かれています。彼はチャンスの女神の前髪を攫んだ以上の真の幸せの光を得たのです。

 これは2千年以上も前の話ですが、現代に至るまで、同じようなことが絶えず起きています。それはイエスが十字架上の死から復活し、今も生きて私たちと共に働いておられるからです。イエスの愛による救いの恵みは、3度ばかりか、いつでも、どこでも、何度でも、あの盲人のようにイエスの愛と力を信じて助けを求めれば、イエスは立ち止まり、「何をしてほしいのか?」と尋ねてくださいます。その時、彼のように本心の願いを率直に申し上げればよいのです。イエスの愛は無条件です。時宜に応じ、最善の形で日常生活に起こる不思議な感動を救いのチャンスとして捉えたいものです。

たえず1歩前に

森田 直樹 神父

今日の心の糧イメージ

 自分がまだ若かった頃は、考えるよりも先に身体が動いていたように思います。あまり考えずに、とにかく動き出すので、時には空回りすることも多かったのだと思います。

 ところが、歳を重ねるにつれ、逆に慎重になりすぎて、なかなか1歩を踏み出せない自分に気付いています。さらに加えるならば、1歩を踏み出す代わりに、周りから1歩退いているのです。

 なかなか、たえず1歩前へと踏み出すことができないのが、正直なところです。今まで受けてきた数々の否定的な体験から、1歩を踏み出すのをためらってしまうのです。

 これと同じように、今までの失敗や、他人を傷付けてしまった体験から、尻込みをしてしまい、神さまの前に出ることを拒んでしまうこともあるのでしょう。神さまは、こんな私をゆるされるはずがない、こんな私を受け入れてはくださらない、と自分勝手に決めつけて、尻込みしてしまうのです。

 そんな頑なな私たちに対して、聖書は次のように告げます。「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブライ4・16)

 私たちは、大胆に勇気を持って、神さまの前に、たえず1歩前へと歩み出すことができるのです。言い換えれば、自分の弱さや罪を自覚しつつも、それでも、神さまの前にたえず1歩前へと踏み出す勇気と大胆さを持って良いのだ、と聖書の言葉は、今日も私たちの背中を押してくれるのです。

 たえず1歩前へと踏み出す勇気と大胆さは、私たちに、いつでも新しいスタートが切れることを保証してくれます。「たえず1歩前に」これは、私たち自身を常に新たにし続けてくれる秘訣なのかもしれません。


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