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Responsibility

土屋 至

今日の心の糧イメージ

 英語の responsibility に「責任」という漢字をあてたのは誤訳ではなかったのかと、私は思っています。

 明治の初期に留学帰りの日本人が英語の概念に漢字の訳をあてたときの誤訳だといわれています。「philosophy」を「哲学」と訳したという名訳もありますが、このように明らかに誤訳と思われるものもけっこうあり「責任」はそのひとつです。

 もともとの英語はrespond =「応答する、応える、反応する」という動詞ですから、responsibility =応答できることというようになるはずです。

 呼びかけや求められたこと、期待されたことに応えられるという前向きな言葉なのです。

 キリスト教的にいえば、「神の呼びかけに応えられること」です。

 私たちは生活の中のいろいろな場面で、社会からあるいはまわりの人から呼びかけられ、求められ、期待されています。助けを求めている人に出会うこともあります。

 そういう呼びかけを敏感に感じ取って、それに速やかに応えられることというのが英語のresponsibility の本来の意味です。

 それを誰が訳したのか「責任」としました。

 「責任」というと、自分のなしたことの結果の後始末をできること、あるいは失敗した時の責めを負うという意味になってしまいます。

 「失敗したときの責任をどう取るのだ」というのは、何か新しいことをしようとするときに、それをやめさせようとする定型文句です。

 本来 responsibility というのはもっと前向きで、積極的な言葉であるのに対して、「責任」というのは明らかに後ろ向きで消極的な言葉です。

 なんでこうなってしまったのでしょうか? 日本の社会のある一面をえぐり出している言葉かもしれません。