たえず1歩前に

遠山 満 神父

今日の心の糧イメージ

 八木重吉氏の詩の中に、「基督」という作品があります。「キリストを仰ぎて黙す。険しい路を思う。キリストに掴ろう。キリストに掴ろう。振り放されても、振り放されても、掴ろう」。

 私は、キリストの事を思う時、険しい山を思う時があります。一方では、これ以上登れないのではないかと、険しい山の前で呆然としている、そんな自分がいます。

 そんな私を、勇気づけてくれた動画があります。以前テレビで放映されていた、鴨の親子の道路横断の動画です。親鴨を先頭に、十羽以上の子鴨がその後に続いて道路を横断していました。親鴨は、車道と歩道の段差をいとも簡単に飛び越えて行きましたが、子鴨達は車道と歩道との間の段差を乗り越えるのに悪戦苦闘していました。暫くして、子鴨の中の半分以上は、車道と歩道の段差を乗り越え親鴨に着いて行ったのですが、残る4羽くらいの子鴨たちは乗り越えることができず、立ち往生して困り果てているような気配でした。その時です。彼らが、自分達が飛び越えようとしている道路の部分のその先に、車道と歩道の段差のない部分を発見したのは。子鴨達は無事そこを通って、親鴨に着いて行きました。

 私は、毎日の生活の中で、険しい山の前で立ち往生してしまうような経験をする時、この動画の事を思い出します。ただ正面を見つめて呆然としてしまうのではなく、周囲を見渡していれば、山の向こう側に出る方法を見出せるような気がするのです。

 聖書の中に、次のような言葉があります。「神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせる事はなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます」。(1コリント 10・13) 有難い事です。

たえず1歩前に

岡野 絵里子

今日の心の糧イメージ

 「1歩でも前に進むよう、常に努力していなさい」と言われると、大変な重荷を背負わされたように感じてしまう。常に頑張り続けるなんてつらい、楽をしたり、休んだりしたいと思う。

 だが「たえず1歩前に」進むのは、実は人間の本性によく合っているのである。人は、新しいスキルを身につけたり、学んだりして成長していくのを喜びとする生き物なのだ。私は勉強嫌い怠け者ですからと言う人も、趣味においては努力を重ねていて、見事な技を持つ達人であったりする。

 私は子どもの頃、自転車に縁がなく、乗れるようになったのは、30代も半ばだった。大人のための自転車教室を見つけ、そこで乗り物に乗るコツを丁寧に教えて貰い、半日頑張って、とうとう道を走れるようになった時の嬉しさは忘れられない。ペダルを踏んで進めば進むほど、世界は大きく広がっていき、新しい自分が始まったようだった。

 練習したのは半日だったけれども、自転車に乗りたかった幼い日から数えれば、30年の年月がある。諦めず願い続けることで、私は望みが叶えられる時へと、1歩ずつ近づいて行っていたのかもしれない。

 幸福に生きる秘訣の一つは、日々の中に小さな喜びを見出すことだと思っている。その喜びが、1歩ずつ自分が成長していける喜びであれば、なお良いと思う。散歩の途中で、道端の花を見るのも喜びだが、自分で育ててみれば、喜びは深いものになる。咲いた花を誰かに贈れば、今度は人に喜んでもらえる。新しい世界と新しい自分が始まるのだ。日々が続くように、私たちもたえず、1歩ずつ進んで行く。前へ、幸福の中へ。


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