いつしか私も高齢者の仲間入りをし、聖書をくり返し、くり返し読むと、また、聖書の核のようなものが心にしみ渡る様になった。
それはマタイ福音書の25章にある。
イエズスさまがこの世にお生まれになられた原点がここにあると思うのである。
「わたしが飢えていた時に食べさせ、渇いていた時に飲ませ、旅をしている時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢屋にいた時には訪ねてきてくれた・・・」(25・35~37)
この世で出会った人に対し、どの人もイエズスさまと思って、分かち合いの精神で真心をこめて接した人たちのうちに天国はあると、イエズスさまははっきりとおっしゃっておられるのである。
何もむずかしいことではない。
自分のできる範囲で分かち合いを実行したらいいのである。
イギリスに留学していた人から話を聞く機会があったが、イギリス人は日頃は個人主義のような暮らしをしているのに、毎年12月のクリスマス月になると、とたんに気持ちがやさしくおおらかになり、日頃倹約して貯めていたお金を惜しげもなく寄付する人が多いという。
私も12月には、使ったつもりで使わずに貯めた『つもり貯金』を方々へ寄附する。
1年間、つもり貯金をすると、自分でも驚くほどの額になる。それをすべて寄附するのが、私のクリスマスの迎え方である。
昭和28年、実験放送中の日本テレビが、本番をTV中継したので、出演者にとっては今も語り草です。
「天では神に栄光、地上では御心にかなう人々に平和あれ」今でも当時の仲間は合言葉のようにこの天使のセリフをクリスマスカードに書いて交換します。
今、人生を振り返り、私は自分のセリフが身に付いてきたことに気づきます。
「あなたのお役に立ちたいのです。」「この身に起こる事を感謝します。私自身は気付かなくてもあなたが向くと思われるなら何事も挑戦しますから」毎日の祈りの中でこんなつぶやきもお捧げしてきました。
若い頃はただ絵を描き、素晴らしい作品が持つ様々なジャンルへの広がりを教えることが務めでしたが、不思議なことに私自身がその広がりを実践する人になったのです。とても描けないと思った殉教者たちが今身近な存在で、彼らについて講演し、劇作もします。
きっかけは神様が用意して下さる思いがけない人との出会いなのです。
「私は主にお仕えするものです。お言葉通りにこの身に起こりますように」。明日は何が起きるでしょうか?