仮に、眠ってしまったとしても、その子にとっては無駄なことではなかったと思うんです。親と一緒にクリスマスの深夜ミサに行った、兄弟姉妹で一緒に歌った、踊ったなど、大きくなって、たとえ、嫌な苦い経験であったかもしれないけど、長い人生の中では、いいことにつながっていきます。これが「生きている」ことの意味ではないでしょうか。だから、親子連れでミサに参加し、共に祈ることは、親子の財産であると思います。「祈る」ことを親の仕草、姿を通して子どもたちは会得していきます。これこそ、立派な「信仰教育」ではないのかなと常々思っています。
「干渉する」という言葉はそれ自体いい響きを感じませんが、「関心がある」からこそ干渉したくなってくるのでしょう。大人の干渉によって、子どもが不愉快になってしまうことはよくある話ですが、それでも、あとで思えばプラスに働いています。
わたしのあの時のクリスマスは、まさにこれでした。人前で注目されることが嫌だった私が、みなの前で剣舞をするように命令されたのです。おいしいはずのケーキ等も味を覚えていません。それが今、力になっているのです。
神のみぞご存知です。
あれから、駅や道で声をかけ、手を貸してくださる方が増えました。「ここは1人で歩くほうが安全」というときに「ノー・サンキュー」を言っても「せっかく声をかけてあげたのに」と叱られることが少なくなり、自然に受け止めていただけるようになりました。
いままでは「特別なお願い」だった駅での誘導や見守りも「普通のお願い」に変わりました。駅員さんたちがこれまで以上に自然に気持よく助けてくださるようになったのです。おかげで、電車が止まって慣れない駅で降りることになったときや、ラッシュアワーにちょっとだけ見守りをお願いしたいときも、安心して「お願いします」と言えるようになりました。
やっとここまできた、というのが正直な感想です。
ささやかな働きでしたが、クリスマスの、声かけマニュアル作りは、神様からの素敵なミッションでした。以来、私は大学の講義などでこの問題に積極的に触れるようになりました。
こうして、2016年のクリスマスは、私にとって大きな1歩となったのです。