わたしのクリスマス

シスター 山本 久美子

今日の心の糧イメージ

 キリスト教とは無縁の家庭で育ったわたしにとってのクリスマスは、ただの外国の行事でした。子供の頃は、せいぜいサンタクロースというキャラクターが親しまれて、ケーキやお菓子の詰まった長靴をたまに買ってもらったというくらいで、何のお祝いかもはっきり知りませんでした。しかし、カトリック系の中学校に入学したことから、クリスマスの本当の意味を教えられ、「わたしのクリスマス」は少しずつ意味のある日にと変わっていきました。

 クリスマスは、救い主イエス・キリストの誕生を祝う日です。当日を祝うだけでなく、その日を迎えるために「待降節」という期間があり、心をこめて祈り、準備することも教わりました。誰かの誕生を心から待ち望む祈りの心、心静かに待降節のローソクに火をつけ、主イエスの誕生の場である「馬小屋」を飾り、キリスト誕生の聖劇の練習をし、いろいろなことを整えていく静かな喜びも初めて経験しました。

 中でも、待降節の間、クラスメートの誰かのために祈り、黙って何か心の贈り物をする実践を通して、主イエスがお生まれになったのは、他者の「愛」となるためだったと気付かされたのは、「目から鱗」のような体験でした。

 修道院では、共同体で、クリスマス・イヴまでの9日間、1年の間にお世話になった全ての恩人の方々を想い起こし、「ノヴェナ」と云われる特別の待降節の祈りを共に捧げて、クリスマスを祝います。クリスマスの修道院の雰囲気は特別です。

 クリスマス・ノヴェナの祈りで、1人ひとりの心に主イエスがお生まれになり、その愛で満たされますようにと願いながら、多くの人々とのつながりを味わう日となっています。

わたしのクリスマス

森田 直樹 神父

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 東日本大震災・大津波の約半年後、岩手県沿岸部の大船渡教会に私は赴任しました。それから1年半の間、いわゆる"被災地"で生活しました。知らず知らずのうちに、肩に力が入りすぎていたのでしょう、今から思い返すと、緊張の毎日を過ごしていました。

 まだまだガレキが残る市街地を、ガレキ処理の大型トラックが走るそのすぐ横をすり抜けながら、自転車にまたがって、日々買い物に出かけていました。

 ふと見ると、学校帰りの高校生と思われる生徒たちが歩いていきます。多感な時期を過ごしている彼らは、きっと心深くに故郷がずたずたに破壊された姿を刻んでいくのだろうと思いました。決して消えることのない記憶です。

 そんなある日、街の中を、自転車をこぎながら、私はクリスマスの歌を口ずさんでいるのに気づきました。冬でもなく、クリスマスの季節でもないのに、です。ガレキが残る街の中で、独り、クリスマスソングを口ずさんでいるのです。

 初めは、少しおかしいな、と思いましたが、次第にそれが続くようになり、ついには、これはきっと、自分の心が何とかバランスを取ろうとしているのだ、と思うようになりました。おそらく、同じような体験を被災された方々は経験してきているのでしょう。

 そのうち、こう考えるようになりました。季節に関係なく、イエスさまの誕生を祝う気持ちをもっていいのだ、そして、その気持ちがあれば、いつでもクリスマスになるのだ、と。実際、クリスマスとは、イエスさまの誕生を祝うだけでなく、イエスさまを自分自身が受け入れることでもあるからです。

 今年もクリスマスがやってきます。実はこれこそが、季節に左右されない密かな私のクリスマスの祝い方なのです。


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