校舎正面にラテン語で刻まれたこのみ言葉を眺めながら、救い主のご降誕に当たり、神のみ心のままに幼子を受け入れた聖ヨセフの働きに思いを馳せていました。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」、これはマタイによる福音書の冒頭部分です。そして42代に及ぶ長い系図が続き、最後に「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」と記されています。(マタイ1・16)
「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい」(参:マタイ1・20~21)と告げる天使の言葉と婚約者マリアを信頼したヨセフは、天使の命じた通りに妻マリアを迎え入れました。ヨセフとイエスには血の繋がりはありませんでした。しかし、ヨセフが子として受け入れたことによって、イエスはダビデの子とされ、ダビデの子孫から救い主が誕生するという、神の救いのご計画が実現されたのです。
クリスマスに当たり祈ります。天使から告げられた神のご意思に従ったヨセフの勇気と信仰に倣い、私たちが神のみ旨実現の道具として生きていくことができますように、アーメン。
現在、子供たちは成人し、それぞれに家庭を持っています。私たちは、夫婦2人きりでクリスマスを祝うようになりました。最近は函館郊外大沼で雪のクリスマスです。大沼暮らし最初のクリスマスイブのことでした。夏から体調を崩して入院していた画家のKさんが突然亡くなりました。私たちの大沼暮らしを全面的にサポートしてくれていた方でした。翌日彼から自筆のクリスマスカードが届きました。それを見て涙が止まりませんでした。さらに数年後のクリスマスイブ、義理の姉が自宅で倒れ亡くなりました。兄から夜遅く電話で知らされた私たちは、すぐに弔問に行くこともできず冥福を祈り続けました。
若い頃は、形あるものをプレゼントしたり、頂いたりして、嬉しかったものです。年を取って様々な別れを体験しました。今しみじみ思うのは、プレゼントしたいものは形のあるものではないということです。それは健康以外何物でもありません。
「どうかあの方が元気でありますように」
私たちがクリスマスに祈るのはこのことです。